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 海岸寺山から源太ヶ城山へ    ..山旅     >>引用
      2024/12/20(金) 08:07  No.7229
 
 
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7月の北八ッ彷徨以来となるモリノブタさんが参加してくれるというので、知られざる地元の山を歩いてみようと思った。

ちょうど1年前、海岸寺山と源太ヶ城山を歩いた。体力的に楽で、歴史的な興味も湧き、もちろん誰と出会うこともない山である。このコース取りを我ながら気に入った。身近に見ている山でも、モリノブタさんにとっては初めてであろう。

海岸寺(浅川)峠への車道が新しくなっていくにつれ、参道の石段は分断され、今は登らずとも参拝できる。前回は、旧車道からの石段を登ったが、さらにその下にも石段が残っていて、これがおそそらくもっとも古いものかと思う。

その証拠には、石段の始まりの両側には、いったい樹齢何年だろうかという、おそらくツガだと思われる巨木が立っている。天然記念物級のこれらを観るだけでも価値があると思うが、すぐ横を車道で通過してしまう今では顧みる人もいない。

 Re:海岸寺山から源太ヶ城山へ    ..山旅     >>
        2024/12/20(金) 08:08  No.7230
 
 
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うっすらと雪が積もった、人っ子ひとりいない海岸寺。鹿道を拾ってその裏山の海岸寺山に着くと小さな石祠がある。源太ヶ城山への林道は、もう久しく車が通らなくなって、落葉でふかふかになっている。

山の北側を歩くときには雲間に真っ白になった赤岳が見える。厳しい寒さで、そそくさと源太ヶ城山のふたつのコブを縦走し、打って変わって暖かいひだまりの林道で富士山を見ながら昼休みとした。


 Re:海岸寺山から源太ヶ城山へ    ..鉄人M     >>
        2024/12/20(金) 19:09  No.7231
 
 
海岸寺峠から海岸寺山に登り、さらに東方の尾根を笠無まで辿ったことはあるのですが、源太ヶ城山は真逆の西方にあるのですよね…
私には未踏の峰で、今まで大変気になる存在でした。

「富士山を見ながら昼休み」だったとのことですが、八ヶ岳方面の展望は如何だったのでしょうか?

ロッジ山旅での夕餉のさい、机上に置かれる箸袋にフューチャーされた八ッの雄姿は、かつて、ぴんぼけやさんが撮影された作品と伺っております。

今でも果たして、このように見事なパノラマが得られるのかどうか…
ご教示いただけましたら幸いです。

 Re:海岸寺山から源太ヶ城山へ    ..山旅     >>
        2024/12/21(土) 08:38  No.7232
 
 
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以前は、源太ヶ城山への道が山の北側へと切通しを越えるとき、八ヶ岳の大観が拝めたのですが、今では、落葉時こそ枝越しに見えはするものの、葉が茂っていたらほとんど見えないんではないでしょうか。

2005年2月、たわらさんや横浜YYさんたちと歩いたとき、たわらさんが撮ってくれた写真が今でもロッジ山旅の箸袋で使っている写真です。
https://yamatabi.info/tawara-20050212.html

ここからの八ヶ岳は赤岳が両脇に阿弥陀岳と横岳を従えて、王者の貫禄なんですよね。飯盛山からだと、阿弥陀が赤岳に隠されて画竜点睛を欠くわけです。

 Re:海岸寺山から源太ヶ城山へ    ..鉄人M     >>
        2024/12/21(土) 11:10  No.7233
 
 
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名場面のご開陳、ありがとうございます。

う〜ん、これぞ「失われた大観」ですね。
残念な限りです。
"赤"と"阿弥陀"の両雄並びは、まさに素晴らしい!!

添付写真は平沢山山頂ですが、確かにここからでも阿弥陀は見えず、画竜点睛を欠いてしまっています。

 Re:海岸寺山から源太ヶ城山へ    ..森の豚     >>
        2024/12/21(土) 13:19  No.7234
 
 
久しぶりの木曜山行に少し少し興奮した。
今日の山はもちろん行ったことが無く、地図に名前も載っていない海岸寺の裏山との事。

海岸寺山は小さな祠がある目立たない山頂だが、源太ヶ城山は昔、のろし台があった山頂には、須玉町が作ったのろし台の架設跡があつた。今は壊れて廃棄されている。戦国時代には武田の家臣武士団が、佐久方面からの襲撃に備えて、狼煙を上げて甲府方面に知らせたと思うと、なんと良い立地だったのだろう。

ここからの冬の八ヶ岳連峰の眺めは最高だった。



 Re:海岸寺山から源太ヶ城山へ    ..山旅     >>
        2024/12/21(土) 17:24  No.7235
 
 
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源太ヶ城山の烽火台が復元されたのは昭和62年ころだったようです。バブル期で予算があったのでしょうね。それから20年くらいは形をとどめておりましたが、今では残骸になっています。能書きが書かれた木柱も、半分くらいは判読ができませんが、かつて撮った写真ではまだ読めました。

「逸見冠者黒源太清光が築城したと伝えられ、その名がある。烽火台に用いられたといわれているが、山頂から西へ旭山砦、谷戸城、南に若神子城、北に浅川や平沢方面が一望でき、重要な中継点であったことがうなずける。武田氏の時代に活躍した津金衆は、この城のふもとにある古宮城(屋敷)を本拠とし、北辺を守る武士団として信州佐久郡あたりまで勢力をもっていた。遺構は双峰の山頂部に平坦部をもち、数段の帯郭がよく残っている。土塁はなく、須玉川左岸の崖をもって要害としている。」

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