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昨日、朝4時前に目黒川沿いを早朝ウオーキングしているとき、パラパラと音がして霰が降って来たのにはちょっとびっくりした。 いったん上がったのだが、表参道をウオークしていたら再び、霰から小雪になって舞い降りてきた。冷え冷えとした朝だった。
●藤沢 周平著:「雲奔る/小説 雲井龍雄」 文春文庫
【米沢藩士・雲井龍雄。安井息軒の三計塾きっての俊才と謳われる。やがて幕末狂乱の嵐は奥羽列藩に及び、会津鎮撫の挙に出た薩摩に、龍雄は激しく憤り、「討薩の檄」を懐に奔走する。薩賊の兵、東下以来、侵掠せざる地なく、鶏牛をぬすみ、婦女に淫し・・・・。討薩ひとすじに二十七歳の短く激しい生を生きた悲劇の志士を描く移植小説―本の紹介よりー】
龍雄という人は、安井息軒という有名な学者の三計塾という塾で塾頭を務め、とてもいい人脈を握っていたんです。頭は切れるし、人脈もある。米沢藩の探索方として、外交的に藩を動かしていくにはうってつけの人だったんですが、惜しいことに龍雄が乗り出したときには時世--幕末の体制がだいたい決まっていたんですね。薩摩、長州の倒幕という方針が決まっておりまして、つまり龍雄の活躍する場所は限られてしまった。だから志士としての龍雄の活動はやはり二流のものに終わらざるを得なかったと思います」―米沢での講演から抜粋ー
山形県からは幕末の志士と言われる偉人が二人出ている。 一人は清河八郎(現庄内町清川)でもう一人は雲井龍雄(現米沢市)の二人で、接点があるのかとても興味のあるところだったが、いろいろな書物や歴史家に見聞してもなかったようだ。 ただ、サクランボで知られる寒河江(さがえ)にあった旅館橋本屋(現存していない)に清河八郎は江戸へ出奔した際に泊まっていることと雲井龍雄はこの旅館で知人と議論していたことまでは何とかたどり着くことが出来た。 ちょうど清河八郎が麻布一ノ橋で暗殺されたころ(文久二年から三年)から表舞台に立つようになった。著書からは幕末の動きが手に取るように見えてくる。再読【20241220(金)】
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