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昨日の夕方、済州島から帰ってきました。
31日から4日間、3回の出演、レコーディング、4.3事件70周年追悼式に参加ととても慌ただしかったけれど、毎日、全てが有意義で感動的でした。 語らなければいけないことがたくさんありますが、取り敢えず、昨日の追悼式での文在寅大統領の追悼の辞を訳しましたので、ご紹介します。
大統領 追悼の辞
4.3 生存犠牲者と遺族のみなさん、済州道民のみなさん。 石垣ひとつにも、散った椿の花にも、痛哭の歳月を胸に秘めて来たチェジュ で、「この土地に春はあるのだろうか」とみなさんは70年間問い続けてきました。私は今日、みなさんにチェジュの春を告げたいと思います。 悲劇は長く続き、風さえ吹けば涙があふれるほど苦しみは深かったけれど、菜の花が満開に咲くように、チェジュの春は咲きほこるでしょう。 みなさんが4.3を忘れず、みなさんと共に苦しんだ方たちがいたいたことによって、今日私たちは沈黙の歳月を閉じ、こうして集うことができました。 渾身の力をこめて4.3の痛恨と苦痛、真実を伝えて来た生存犠牲者と遺族、済州道民のみなさんに大統領として深い慰労と感謝の言葉を贈ります。 尊敬する済州道民のみなさん。 70年前、ここ済州で何の罪もない良民たちが「理念」という名のもとに犠牲になりました。「理念」というものを知らずとも、泥棒も無く、乞食も無く、門も無く、共に幸せに暮らすことができた罪の無い良民たちが、訳もわからないまま虐殺されました。 1948年11月17日、済州島に戒厳令が宣布され、中山間の村を中心に「焦土化作戦」が展開されました。家族の中の一人でもいなければ「逃避者の家族」という理由で殺されました。中山間の村の95%以上が燃えて無くなり、村の住民全員が虐殺された場所もあります。 1947年から1954年まで、当時の済州島人口の十分の一の3万人が死んだと推測されます。 理念が引いた、生と死の境界線は、虐殺地にだけあった訳ではありません。一辺に家族を失っても「暴徒の家族」という言葉を聞かないように、息を殺して生きなければなりませんでした。苦痛は連座制で次世代にも受け継がれました。軍人になって、或いは公務員になって国のために働こうとした子供たちの熱望を済州島の父母たちは自ら諦めなければなりませんでした。 4.3はチェジュのあらゆる所に宿っている苦痛でありましたが、チェジュは生きのびるために記憶を消さなければならない島になりました。 しかし語ることもできなかった歳月の間、済州道民の心の中で真実は消え去りませんでした。4.3を歴史の座に正しく位置づけるための涙ぐましい努力もたゆまず続けられました。 1960年4月27日、観徳亭広場で「忘れろ、黙っていろ」と強要する不義な権力に立ち向かってチェジュの青年学生たちが立ちあがりました。チェジュの中高生1500名が不正選挙糾弾とともに4.3の真実を叫びました。 その年、4月の春はつかの間、5.16軍部勢力によって潰されましたが、真実を伝えようとする勇気は消え去りませんでした。 数多くの4.3団体たちが記憶の外にあった4.3を絶え間なく呼び起こし続けました。 チェジュ4.3研究所、チェジュ民連帯、チェジュ民芸総等、多くの団体が4.3を語り続けました。 4.3を記憶する事がタブーであり話すこと自体が不穏視された時代、4.3の苦痛を作品に刻み込み、忘却から私たちを目覚めさせてくれた方々がいらっしゃいました。 維新独裁の頂点だった1978年に発表された、小説家ヒョンギヨンの「スニおばさん」、金石範作家の「鴉の死」、「火山島」、イサンハ詩人の長編叙事詩「漢拏山」。3年間に50編の”4.3連作“を完成させたカンヨベ画伯の「椿の花散る」。4.3を扱った最初のドキュメンタリー映画チョソンボン監督の「レッドハント」。オミョル監督の映画「チスル」。イムインフン監督の「悲念」、キムドンマン監督の「タランシュィ洞窟の悲しい歌」」、故キムギョンユル監督の「終わらない歳月」。歌手アンチファンの「眠らない南の島」。 時には逮捕と投獄が続いた芸術家たちの努力は、4.3が単に過去の不幸な事件ではなく、今を生きる私たちの話であることを知らせてくれました。そのことによってついに私たちは4.3の真実を記憶し表すことが、民主主義と平和、人権の道を開いていく過程であることを知ることができました。 済州道民と共に、長い間4.3の苦しみを記憶し、知らせてくれた方々がいたおかげで、4.3は目覚めました。国家の暴力によるその全ての苦痛と努力に対して大統領としてもう一度深く謝罪し、また深く感謝いたします。 4.3生存犠牲者と遺族のみなさん、国民のみなさん。 民主主義の勝利が真実に向かう道が開かれました。 2000年、金大中政府は、4.3真相究明特別法を制定し、4.3委員会を作りました。盧武鉉大統領は大統領として初めて4.3に対する国家の責任を認め、慰霊祭に参席し、犠牲者と遺族、済州道民に謝罪しました。
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