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No.738 への▼返信フォームです。


▼ 『どっこい函館本線』について   引用
  あらや   ..2025/03/16(日) 09:54  No.738
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この記事は小樽のタウン誌「月刊おたる」2000年9月号(通巻435号)に載ったものです。現在、「人間像」同人が書いた作品を探して「月刊おたる」を創刊号から調査しているのですが、その過程で見つけました。
2000年3月の有珠山噴火と山線(函館本線)の関係については「北海道新聞」2024年5月11日後志・小樽欄に載った渡辺真吾さんの記事で初めて知りました。で、いつものようにそのサイトを引用しようとしたのですが…
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1010510/
有料なんだもんな。がっかりだ… 要旨は、この有珠山噴火によって運休状態になった室蘭本線の代替として函館本線が使われたということ。山線なき後は有珠山が噴火しないことを祈るばかりだということでした。
『どっこい函館本線』は当時の様子を詳細に語ってくれます。山線の意味を知らない、東京から来た知事や社長にはぜひ読んでいただきたい。

 
▼ どっこい函館本線   引用
  あらや   ..2025/03/16(日) 10:01  No.739
   ▼直通列車走る
 虻田町の有珠山噴火は、世紀末の本年のトップニュースになるだろう。残雪があった三月二十七日に火山噴火予知連絡会が噴火警報をだし、住民の避難勧告をしたとき虻田町周辺の住民は長期避難、深刻な被害も覚悟したろう。
 有力な観光地である洞爺湖温泉街では、シーズンにかけての予約が例年通りのところ、よもやの事態に大あわてだったという。ホテルは堅固な建物で頻発した振動は宿泊客に不安を与えるものでなかったというが、二十七日に急転し、震度のレベルが上がって、断層、隆起、地溝発生と目に見えて悪化した。クライマックスの噴火はいつかに、報道の焦点がしぼられ、湖畔に設置したテレビカメラの前でアナは懸命に実況放送を続けていた。
 噴火の第一報は三月三十一日午後一時といわれている。火口は湖畔の温泉街から見て稜線沿いに開いたようだった。いくつもの火口から噴煙が上がり、テレビでも噴石がはじき飛ぶ様が見受けられた。
 しかし七月末には火口周辺以外は避難解除になっているが、この噴火で洞爺湖温泉街の観光客入り込みは莫大な影響を受けた。洞爺湖ばかりでなく小樽も、例年より周遊客が減少し、予想外の成り行きに不安を党えている向きもある。有珠山噴火は洞爺湖ばかりでなく、ただちに道央の小樽にも影響があるのだ。全道的に観光客の入り込みは昨年度までは右肩上がりだったが、本年度は四月期マイナス一○%で、その傾向は続くと思われる。積極的な誘致対策が展開されているが挽回できるだろうか。
 この噴火で国道二三〇号線が地盤隆起でストップとなったが、同時にJR室蘭本線も洞爺―有珠間で線路がS字状にずれて運休となった。列車は翌一日以降は東室蘭―長万部間は全列車が運休し、一部は函館本線に迂回となった。噴火で札幌―小樽―函館を結ぶ函館本線を、二ヵ月ほど直通特急列車が走った。ひさしぶりのことだった。

 
▼ どっこい函館本線(続き)   引用
  あらや   ..2025/03/16(日) 10:07  No.740
   ▼優等列車があった頃
 特急などの列車は鉄道会社では優等列車と呼ぶらしい。函館本線でそうした列車は走っているだろうか。冬季には優美華麗な快速スキー列車が走るが、あれが優等列車なのであろう。
 いささか昔を振り返ると、国鉄当時、函館本線の直通列車にも愛称がつけられたが、鉄道ファンの記憶にある優等列車は急行『まりも』だろう。『まりも』は昭和三十一年(一九五六)秋のダイヤ改正からC62型のSLに牽かれた。C62は東海道線で特急『つばめ』を牽いたことで知られていた。ところが東海道線が全線電化されたので余剰SLとなって、海を渡って北海道に回ってきたのだ。そしてツバメのマークをつけたままさっそく『まりも』を牽いた。
 だがエネルギー革命は着々と進んで、昭和四十二年には函館本線にジーゼル特急『北海』が走るようになり、同六十一年に『北海』は千歳線の『北斗』と併合になって、函館本線から特急はなくなっている。
 この特急開設当時はC62が牽く急行『ニセコ』も走っていたが、季節急行になったり、長万部発の普通列車になったりしているうちに、ばっさりナタを振られて小樽回りの優等列車はなくなってしまった。
 かっては首都札幌と函館を結ぶ大動脈は函館本線だったが、優等列車は消え、その座は千歳・室蘭本線に明け渡した。同線が複線化され輸送力が向上したのに加え、千歳空港という要衝をひかえ、苫小牧、室蘭港の進展もある。
 札幌を中心とする旭川や、太平洋側の苫小牧、室蘭の各般のプロジェクトの発展は戦後の流れで、それに比して小樽から後志にかけては山間、豪雪地をかかえ開発に後れをとっている。人口、産業が伸びていない。だから水が引くように優等列車もなくなってきたのだろう。

 
▼ どっこい函館本線(続き)   引用
  あらや   ..2025/03/16(日) 10:12  No.741
   ▼日は当たったが…
 函館本線が大動脈であった頃は急行、準急の列車を時刻表で何本か数えられた。いまは函館までの直通列車がないので、その日のうちに函館にたどりつくかと思われる時刻表の心細さだ。長万部まで三時間かかる普通列車が日に四本ほどあり、不便な接続で函館まで続いている。時刻表では二五二・五キロの函館までの鉄路を六時間ほどかけて行くことになっているが、接続の待ち時間があるから、もっとかかる。結局千歳回りの特急に乗ることになる。それだけ金もかかる。千歳回りでは札幌から函館まで三一八・七キロを三時間半ほど、小樽からはさらに札幌までの距離三三・八キロと時間三〇分ほどを加え、四時間ほどかかる。小樽から千歳回りは、迂回だが、しぶしぶ利用されている。
 そこへ噴火である。函館行きの特急列車は小樽を回った。といっても四月から六月初めまでの二ヵ月間だったが、忘れられていた函館本線につかの間の日が当たった。単線運行だからスムーズな運行だったとはいえない。待ち合わせ時間があって所要時間は延びた。
 ところが小樽―長万部間の普通列車がバス転換となった。優等列車優先で、普通列車は切り捨てられている。いまの時刻表を見ると、線路は三種になっている。新幹線、幹線、地方線である。函館本線は幹線の表示がしてある。だが幹線を走る列車でも、じゃまになれば切り捨てるのが会社の方針なのだろう。切り捨ててもかまわない列車が走っているのが函館本線で、幹線とは名ばかりだと多くの人は知った。今回はそれがあって、公共の面目が立ったといえる。

 
▼ どっこい函館本線(続き)   引用
  あらや   ..2025/03/16(日) 10:15  No.742
   ▼新幹線で…
 最近は北海道新幹線の話題が盛んである。新幹線は小樽市内を経て札幌に至るとされている。かつて北海道新幹線は、室蘭経由か小樽経由かで揺れた。南北戦争といわれ、路線争奪があったが昭和四十八年九月に北回りが決定している。路線決定とともに新駅の話題もあって、小樽は新小樽駅の誘致を図った。新駅は従来朝里インターチェンジ付近が有望とされている。
 北海道新幹線のルートは青函トンネルから木古内、函館、八雲、長万部、ニセコ、小樽を経るルートになると思われている。それぞれに新駅はできるだろうが、超特急が停まるのは、札幌を出発したあとはせいぜい函館くらいで、その他は急行が停まるくらいだ。
 それでも長万部や八雲では新駅の決定を見越して、一帯活性化のプラン作りをスタートさせているという。気になるのは長万部の進め方で、ここは函館本線と室蘭本線の合流点だ。どうやら新駅と室蘭線の連携を探っているらしいという。では一方の函館本線をどう考えているのだろう。眼中にないのだろうか。ひょっとしたら新幹線の開通で、長万部以北の函館本線は不必要と見られている現れのようで、気味悪さを漂わせている。幹線といいながら、状況で列車を切る扱いなら、新幹線とひきかえにばっさりもありそうなことだ。
 函館本線は噴火でつかの間の日があったが、新幹線導入時でも後志地方の基盤整備に欠かせない線路であることを示す必要があるのではないか。(T)

 
▼ 山線   引用
  あらや   ..2025/03/16(日) 10:21  No.743
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 父が「本屋」といえば小樽の古本屋だ。私達が住んでいた倶知安の本屋の場合は「文化堂」とか「日進堂」といい、父はわざわざ家人にことわる事もなく散歩の途中で立寄る程度のものだった。汽車に乗ると父は家から持ってきた本をふところから出して読みはじめる。私は久しぶりに汽車に乗った事が楽しくて、窓外の風景を夢中で見つめながら父に「あの木はなんていう木?」とか「あの木に止っている鳥はなんていう鳥?」とか矢つぎ早やにうるさく質問しても、父はその都度目を上げて、やさしい語り口で詳しく教えてくれた。
 父とそうして小樽の古本屋へ行くのが私の大きな楽しみであった。最初は太平洋戦争中で、小学生だった私は私のランドセルにお米を入れたのを背負い駅員やお巡りさんの目をのがれて父に手をひかれ古本屋さんへ行くと、父は何かいかめしい金文字で横文字の皮表紙の本とそのお米を交換したのを今も懐かしく思い出す事がある。ぶ厚いグレーのセーターを着たやせたおじさんが奥の方からその本を新聞紙に包んで重そうに持って来て、チラと中味を見せ父に手渡した。それをまた父は私のランドセルに入れると、おじさんは上りがまちに座布団を敷いてお茶を出し、父と談笑を始める。私は店頭の古い「キンダーブック」とかワラ半紙のような「少女クラブ」などを手あたり次第に読みあさる。私があきた頃におじさんは、当時めづらしかったジャムパンとココアなどを出してくれて引続き父と話しこんだ。
(佐藤瑜璃「港の赤電話」)

北海道の作品にはいつも山線が走っている。



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