| 三十九年の春を迎えて参禅会を再開したものの、初回も二回目も参加者はいなかった。本堂でひとりで、坐禅を行っていると庫裏の方から聞えてくる子供らの騒いでいる声や、それを叱っているユキの声が耳について気分が散る。呼吸を止めたり、心の中で経文をとなえたりしても、容易に雑念は消えず、遊びに興じている子供らの姿が瞼にちらつくのである。 事実、この二年間に庫裏には子供らの数が増えていた。長女トミはその春から岩内女子小学校高等科に転校し、岩内の檀徒の家に下宿して通学していたので、孝運寺にはいなかったのだが、前年春から倶知安高等小学校に通学している旅家家の末娘スエは相変らず日曜日には母タカについて寺を訪れていた。この年、三号線の第一尋常小学校へ通っていたのは長男恒栄(四年)と次女ヒサシ(三年)であるが、数年前から倶知安に居住して今出家の敷地内で木賃宿を営んでいた沼田仁兵衛の養子ハルイ(四年)と一郎(二年)が恒栄兄妹と一緒に通学していたので、当時、日曜日の庫裏はこの子供らの遊び場と化していたのである。 (このはずくの旅路/第五章 絆と柵/2 戸籍族)
第五章から沼田一郎(後の流人)が登場。沼田流人の生涯を考える時、ここに出てくる「トミ」「恒栄」「ヒサシ」「スエ」「ハルイ」「一郎」(そして「ひろせ」)という名はすべて重要なのだということを大森光章『このはずくの旅路』を読んで初めて知りました。それを、この尋常小学校の時代から描いてくれる大森氏の仕事には頭が下がります。
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