| 孝運がランプ生活を苦にしていた形跡は見られない。が、次に起った東倶知安線の建設では、寺の歴史に残るほどの影響を受けた。この鉄道は、東倶知安村(京極町)の三井鉱山ワッカタサップ鉄山と函館本線倶知安駅を結ぶ全長十三・四キロの軽便鉄道である。第一次世界大戦によって需要が急増した鉄鉱石をワッカタサップ鉄山から倶知安経由で室蘭の輪西製鉄所(大正六年二月北海道製鉄と改称)へ輸送する目的で敷設されたのだった。 このこと自体は孝運寺とあまり関係がないのだが、大正五年に着工が本決りとなり、六年五月から用地買収が始まる段階で、この鉄道が孝運寺の参道を横断して本堂の目の前を通ることを知らされて、孝運はあわてた。当時の孝運寺には前庭と呼べるほどの広場がなく、参道が本堂から真っ直ぐに基線道路まで延びていた。その本堂の約二十メートル前を汽車が走るとなると、騒音や煤煙の被害が大きく、踏切を渡って出入りする参詣者への危険度も大きい。孝運は、寺の裏を迂回して敷設するように鉄道院北海道建設事務所へ申し入れたが、地形的に無理という理由で認められず、用地買収に応ずるしかなかった。 (このはずくの旅路/第八章 めぐりあわせ/1 東倶知安線)
今回の『このはずくの旅路』復刻、いちばんの目的は、『血の呻き』を書いている流人の姿を浮かび上がらせたいということです。その意味で、『血の呻き』の発火点ともいえる東倶知安線工事が始まった。
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