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No.1165 への▼返信フォームです。


▼ 幼なじみ   引用
  あらや   ..2025/03/14(金) 17:17  No.1165
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 あの夜の事は今も鮮明に憶えている。
もう三十年も昔の事とは思えないほど、思い出す度に私の胸はときめくのである。
 星のきれいな、水天宮の祭りの宵であった。金魚すくいや、わた飴の出店がジグザグと並び人波が坂道を埋めていた。娘ざかりだった私は、友人達と仕立おろしのワンピースを着て、少しばかりビールなどを呑んで、そぞろ歩いていた。私は、近郊の町の家へ帰る最終列車の時刻を気にしながら、花園町へぬける陸橋にさしかかった時、紅いジャンパーを着た青年とその連れらしいハデな服装をしたガラのよくない一団とすれちがった、私は咄嗟に、紅いジャンパーの彼が仲よしだった幼なじみのKちゃんである事に気づいた。
(佐藤瑜璃「幼なじみ」)

小樽のタウン誌「月刊おたる」の調査を二月頃から再開しています。佐藤瑜璃さんや村上英治さんが書いている…ということは前から知らされていたのですが、その二人以外にも「人間像」同人が書いているかもしれず、また、私自身、小樽の街の歩みを確認したい思いもあって1965年7月の創刊号以来の悉皆調査を去年から始めていたのです。何度かの中断を経て、この三月時点では「2001年(平成13年)」のところまで来ています。
佐藤瑜璃さんと「月刊おたる」の関係もわかってきました。「月刊おたる」は300号に到達した1989年あたりで「月刊おたる文学賞」を始めます。文学賞は最初は小説部門と随筆部門に分かれていたのですが、小説部門の応募が振るわず、翌年には「月刊おたる随筆賞」に一本化されます。紹介した佐藤瑜璃さんの『幼なじみ』は1991年の随筆賞の優秀作なのでした。佐藤瑜璃さんの「月刊おたる」でのデビュー作です。


 
▼ 曲線組曲   引用
  あらや   ..2025/03/14(金) 17:24  No.1166
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 曲りくねった野道を、一人でゆっくりと歩るくのが好き。とくに新婚生活をおくった若竹町二七番地の銀鱗荘へ通ずる曲線の坂道が好きだった、歩るくというより辿るといったムードが私をひきつけた。まだアスファルトでなかった雨あがりの道に青空や赤トンボや白い雲が写っている水たまりがあったり、見過していた雑草が意外と可愛い花を咲かせていたりした。その道で私は、突然眼下に広がった光る海を眺めて「ヤー、チャイカ」と呟いてカモメになったり、真赤に燃えながら海に沈む夕陽に向っでギンギンギラギラと唄って少女になったりした、独り歩るきのダイゴミである。
(佐藤瑜璃「曲線組曲」)

この『曲線組曲』は翌1992年の随筆賞佳作に選ばれました。二年続けての受賞であり、そしてこの頃はすでに「人間像」同人として『セピア色の薔薇』のような意欲作をばんばん発表していた時ですから、月刊おたる社の方でも注目していたのではないでしょうか。随筆賞とは関係なく、1994年2月号の『小樽色』や1996年2月号の『海を見ていたお地蔵さん』のように月刊おたるの方から原稿依頼が来るようにもなっています。
作品をお読みになれば気がつかれると思いますが、佐藤瑜璃さんの句読点の使い方は独特です。私のワープロ打ち間違いと思われる方もいらっしゃるでしょうが、そうではありません。原文の句読点を忠実に再現しています。

 
▼ 港の赤電話   引用
  あらや   ..2025/03/14(金) 17:29  No.1167
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 青い蛍光色の空の下に秋桜のゆれる昼下り、高一だった私が帰宅すると、母が新品の黒足袋のとじ糸を前歯でかみ切り、パンパンと、いせいよくたたいて父にわたしていた。
 父は、よそゆきのついの大島を着流しで、めずらしく母の鏡台をのぞきこんで、長い頭髪を手でなでつけていた。
「どこへ行くのっ」 突っ立ったまま私は少し興奮して聞いた。父は鏡の中から私に言った、「本屋だ、おまえも行くか?」、「いいの?」と私は母の顔を見た、母は笑いながら、「そんなに目ン玉丸くしなくたって行っといで、行きたいんだろ」と言った。私はカバンを放り出して、「ワーイ」と言いながら玄関へもどって靴を履いた。母は、「帰りは夜になるからねえ」と言いながら私のベビーダンスから赤いタータンチェックの衿巻をとり出して投げてよこした。父にもラクダの衿巻をかけながら、「カビのはえたような本のどこがいいんだか無学なわたしにゃわかんないけどねえ、今に父さんの本棚は古くさい本ばかりで雑品屋の倉庫のようになるんでないの」と笑った。父も笑いながら、「じゃ行くか」と下駄をはいた。
(佐藤瑜璃「港の赤電話」)

1994年の随筆賞佳作です。「人間像」発表の作品群と「月刊おたる」発表の作品群が大きくちがうのは「月刊おたる」では瑜璃さんの身のまわりの人々がばんばん登場することでしょう。こういうところは随筆形式の良さ。沼田家の様子が覗えて楽しい。

 
▼ ジョナさんは小樽の港へ帰った   引用
  あらや   ..2025/03/14(金) 17:33  No.1168
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 八十五才になったジョナさんは、真夜中とか、ひどい早朝など、一日数回も電話をかけてよこすようになった。「わたしの財布が無くなった」「どろぼうが入ったらしい」。そのたび息子が車をとばしてかけつける、「もう一人ぐらしは無理だよおばあちゃん」と言えば、「なにいってんだ、まだ若いもんにゃ負けないよ、わたしゃあ」と私達をにらんで言った。そしてきまって「札幌へなんか行かないよ」と言った。
(佐藤瑜璃「ジョナさんは小樽の港へ帰った」)

うーん、凄い。『セピア色の薔薇』のモチーフがこんなところにあったとは。

「月刊おたる」は館内閲覧のみの扱いなので調査には毎日市立小樽図書館に通わなければならない。二月下旬の頃はまだ雪の日々だったからいろいろ雑用も多く、毎日はとても無理でした。ペースが掴めてきたのはこの三月に入ってからです。じつは、この「月刊おたる」調査と並行して、北海道立文学館の『風の中の羽根のように』(佐藤ゆり著)調査も行っています。札幌の用事の隙間を見つけては文学館にも寄るようにしていますが、なかなかこちらもはかが行かない。『風の中の――』については読書会BBSの方で書こうと思っています。

 
▼ 時の流れの忘れもの   引用
  あらや   ..2025/03/14(金) 17:38  No.1169
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 小樽の街を歩いていると、青春時代の昔に還ったような気がして、みるみる若やいだ気分になり足どりまで軽くなっていた私だけれど、近年、そうでもなくなった。私が年をとってしまったからだろうと少し寂しくなっていたら、もう一つ思い浮かんだ。私の若い日の思い出がちりばめられていた街に、郷愁を誘う古いものが少しづつ無くなっている事、私の若かった日をかき消してしまうほどの新しさが視界を覆いつつある事に気づいた。
 小樽運河――、私はいまだに古い運河にこだわっている。悪評もあったけれど、エキゾチックで重厚な感じの風景が、私はとても好きだった。私が初めて見た頃は、もう往時の活気はなかったけれど歴史的なロマンが感じられた。河幅の半分を埋めたてて自動車の洪水になってしまった風景は、好きとはいえない。
(佐藤瑜璃「時の流れの忘れもの」)

この頃は「時の流れの忘れもの」とか「風前のともし灯」とか、小樽に対してやや感傷的な文章が続きますね。それとは別に、この「月刊おたる」2000年9月号には『どっこい函館本線』という現在の山線問題にも関連する重要な(と私には思える)記事が載っていました。詳しく展開したいので読書会BBSに行きます。この「月刊おたる」スレッドは一旦中断し、調査が完了したあたりで再開と考えています。



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