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No.1170 への▼返信フォームです。


▼ 終りのない夢   引用
  あらや   ..2025/03/24(月) 17:55  No.1170
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大人になったら喫茶店をしようと思った。
 (中略)
ある日、決心し友達に話してみた。意外にも男友達は「いいんでないか、似合うかも…」といい、女友達は「あんたならできそう…」と真面目な顔で言った。有頂天になった私は父にも言ってみた、「わっはっはあ、このブスのじゃじゃ馬がぁ、金も無いくせに、見ろこう言っただけでふくれっ面だ。喫茶店などはお客さんに何を言われても愛想よく笑っていなきゃならんのだ、お前にできるもんか、ひっひっひ」 父は一笑に附され、母には叱られて私は、地方官庁の事務員になってしまった。
(佐藤瑜璃「終りのない夢」)

「月刊おたる」という場を得て、書き慣れるにつれてもの凄く重要なことを語り出していると思う。小樽の人間は小林多喜二が大事で沼田流人なんか知らないから、こういう貴重な発言に誰も気がつかないのだろう。


 
▼ 雪明りの街   引用
  あらや   ..2025/03/24(月) 18:01  No.1171
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若くして病死した私の母は戦時中、収入のとだえた父に変って一家を支えるため働きづくめだった。母は秋田の出身で、女学校一年までは秋田で裕福に育ったとのこと、味噌製造業を営んでいた父親が事業に失敗して家と工場を失い、一家は北海道の農村に開拓者として入植した。母は女学校をやめ仲よしの友達とも別れ、見知らぬ雪国へ来て故里を思い、毎日泣いていたとのこと。しかし年月の流れと共にのどかな田舎暮しにも馴れ、家は農業に成功し、母は裁縫や茶華道のお稽古事もできるようになって楽しい青春の日をおくり、十八才の若さで父とめぐり合い恋をし、愛されて結婚した。その後母の実家はさらに新天地を求め、再び一家をあげて樺太へ移住し、小さいけれど木工場を営んだ。北海道に残った母のもとには両親や弟妹から頻繁に良い便りと高価な毛皮製品や食品等が送られてきて、経営が良好であるらしかった。しかし数年後母の両親は他界し、日本は戦争に敗け樺太はロシア領になって弟妹が悲惨な引揚者となって、長女である母のもとを頼って来た。終戦後は食糧、物資が不足して人々は苦しい生活をしいられていた、そんな社会情勢の中で母は結構逞しく、突然、行商人となった。その頃流行した「闇屋」である。
(佐藤瑜璃「雪明りの街」)

マツヱさんのイメージもずいぶん変わりました。それにしても、さすが物書き、この『雪明りの街』は本当に名文ですね。戦後の小樽の街が頭の中にぶわーっと拡がって、孤独感と幸福感に身体が包まれました。

 
▼ 懐想文学散歩   引用
  あらや   ..2025/03/24(月) 18:06  No.1172
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 私が再び「本」を手にしたのは、小樽に嫁いで専業主婦となり時間に余裕ができた頃で、結婚の時、父が〝嫁入道具〟の中に入れてくれた数冊の本だった。「読書は心を養い、生きる力になり、痛みを癒やしてくれる。」と、父のメモが挟んであった。
 (中略)
 後年、札幌へ移り住んで文通を始めた小樽の知人から、「手紙文がおもしろいのでエッセーを書いてみては?」と手紙をもらい、全く自信はなかったけれど思いきって文芸誌に応募してみると思いがけなく入選した、嬉しくなって何度か出しているうちに編集部の人から「小説を書いてみてわ?」と言われて投稿してみると、また思いがけなく佳作入選した。
 やがて息子が成人して巣立って行き時間に余裕ができると、一度味わった感激は新鮮なまま脳裏にあって、再びペンを執るようになった。
(佐藤瑜璃「懐想文学散歩」)

父や母のこと。そして娘である私のこと。もう自在に書きたいことを書く作家になっていますね。この『懐想文学散歩』は「月刊おたる」2004年2月号に載ったものです。佐藤瑜璃さんが爆発的に小説を書いていたのは1990~92年頃ですから、もう十年の歳月が流れている。「人間像」みたいな作品発表の第一線からは退いて、大好きな小樽の「月刊おたる」に落ち着いたエッセイを書く作家に変化して行ったように感じます。でも、「月刊おたる」があってよかった。沼田流人という人を正しく知りたいと思う私には宝の山です。百年経って、ようやく流人から返事が来はじめた…という想いです。



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