| 塩谷村は、その中学校と反対側の函館行きの汽車の次の駅になり、この町から二里ほど離れていた。私たちの通学列軍は、小樽市から三つ目の余市町から出て、蘭島村、塩谷村を通り、小樽市の中央停車場へ着くのである。小樽市の中央停車場は、高等商業学校から坂を下りて、少し左に折れた所にあった。だから、中学生のときの私は、毎朝、その停車場から海と並行した幾つかの町を通り、南方に三十五分ほど歩いて、その中学校に通った。 (伊藤整「若い詩人の肖像」)
一発目から「山線」だった。
湧学館では月一回の「後志文学講座」を開くかたわら、毎年秋になると、その講座で扱っていた作品に関連する地域をたずねる文学散歩を行っていました。『余市文集』は、そのバスの旅のためにつくられた小冊子です。
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