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No.449 への▼返信フォームです。


▼ 北辰群盗録   引用
  あらや   ..2018/04/10(火) 11:07  No.449
   一八七八年(明治十一年)前後から一八八五年(明治十八年)にかけて、ロシア極東地方アムール川河口流域一帯で、馬に乗って武装した一党がロシア人村やロシア軍駐屯地をしばしば襲った。極東少数民族の馬賊団とみられているが、部族は特定されていない。
 最盛期、彼らの総勢は百を超えていたと推定されており、流刑地から脱走したロシア人政治犯やポーランド人も加わっていたと言われる。ロシア軍による追討が何度かおこなわれ、一八八五年の末には、馬賊団はアムール川上流地方へと追い払われた。その後この馬賊団はロシアの記録から消え、二度と登場してこない。
 ロシア連邦ハバロフスクの市立博物館に、彼らが掲げていたという一枚の粗末な旗が残されている。ロシア軍が一八八五年に、ハバロフスク近郊で鹵獲した品々のうちの一点という。黒地に白い星印が縫い取られており、白い星の部分に、うっすらと文字が書かれている。日本人もしくは中国人であれば、それが「共和国」という漢字であるとわかる。
(佐々木譲「北辰群盗録」/史実によるエピローグ)

というわけで、『英龍伝』も出たことでありますし、幕末三部作に突入しようかな…という昨今です。大河ドラマ『せごどん』。薩摩弁、何言ってるのか全然わからない。先週も、薩摩藩士の青春群像観てたら、だんだん腹が立ってきて途中でテレビ消してしまったよ。


 
▼ 婢伝五稜郭   引用
  あらや   ..2018/04/29(日) 17:09  No.450
  「樺太には、じっさいのところ、どのくらいの榎本軍がいるのでしょう」
「降伏前に脱走した者、およそ三百とも言う。その一部は、すでに渡り切ったことだろう」
「誰かが統べているのですか。率いている誰かがいるのですか」
「伝習隊に、兵藤俊作という男がいた。聞いた話では、榎本総裁は室蘭にいた沢太郎左衛門以下二百の将兵に降伏を伝えよと、兵藤俊作を室蘭に派遣した。ところが兵藤俊作、降伏を伝えた後、降伏を拒む者は自分に続けと、室蘭から蝦夷が島の奥地に消えたそうだ。室蘭から彼に従った者、数十いたとか。おれたちも、兵藤殿に合流しようと考えていたのだ。その前に薩摩部隊に出くわしてしまったのだが」
(佐々木譲「婢伝五稜郭」)

やー、つながりましたね。こうなると『五稜郭残党伝』も読んぢゃおうかな。今年は桜も早いみたいだから、五稜郭も連休で満開かな。

 
▼ 羊蹄山   引用
  あらや   ..2018/04/29(日) 17:24  No.451
   峡谷をはさんで打ち合った日から六日目である。
 広大な原野に入ったその日の夕刻、志乃たちはとうとうイプツのコタンを遠目に見ることができた。
 和人地の山を下り、シリベシという富士にも似た形の山の裾野を横切って、和人が拓いた街道に入った。本願寺道と名がついており、浄土宗の僧侶が開削したものだという。内浦湾の虻田という土地と、イシカリの浜の漁場をつなぐ道だ。厳しい峠越えがあるため、蒸気船がよく使われるようになったいまは、あまり通行人もなくなったという。それでもいちおう薩長の討伐隊を警戒しながら、志乃たちはこの道で峠を越えた。途中から、トヨヒラペツという川に沿って下る道だ。そうして昨日の夕刻、イシカリの広野に入ったのだった。
(佐々木譲「婢伝五稜郭」)

人間像ライブラリーに『文芸作品にそびえる羊蹄山』というのをアップしました。山麓のアイテムが出てくるとメモする癖は今も身体に残っています。

 
▼ 五稜郭残党伝   引用
  あらや   ..2018/05/15(火) 08:35  No.452
   それから二日後の午後。
 シルンケを含めた三人は、千歳の邑を見下ろす丘の端に着いた。
 千歳は本来、支笏、と呼ばれていた土地である。大きな窪地、の意味であるが、支笏が「死骨」に通じるということから和人はこの地名を嫌った。近辺では鶴が多く生息していたから、支笏に代わって、千歳、の名がつけられたのである。支笏の名は、いつしか千歳の西方にある陥没湖をさすようになっていた。
(佐々木譲「五稜郭残党伝」)

いや、楽しめますね。昔やっていた文学散歩「バスの旅」では、行く先々の土地にまつわる文学作品を集めたアンソロジー冊子を必ずつくっていました。『支笏文集』もあるんだけど、なんかライブラリーにアップしたくなった。ここ三十年間の文書を整理・ファイルしたので、そういうことも可能になってきています。「残党伝」ですかね…



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