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今日、スパティオ小淵沢で、富田さんを送る会があった。各方面から多士済々が集まって、故人の遺徳を偲んだ。90歳にもなろうという人が亡くなって、これだけの盛大な会が催されるなんて、まずないことであろう。
付き合いと興味がおそろしく多方面に渡っていたなか、山部門を担当していたようになっていた私にも弔辞をというので、原稿を書いていった。以下がそれである。
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皆さんこんにちは。長沢洋と申します。大泉町でロッジ山旅という宿を経営しております。木曜山行という、文字通り木曜日に山歩きをしようという企画を始めて20年以上になります。
富田さんは、その初期からのご常連で、しかも断トツのご常連でした。
富田さんの定年後のご活躍ぶりは、ご自分が書いた記録を僕がもらったものをコピーして皆さんに配ってもらいました。これを見て、富田さんの山以外での活動を僕は具体的に知ったわけですが、僕なんかは富田さんの山部門だけの知り合いだったんだなあということがよくわかります。したがって、ここにお集まりの皆さんとも初対面という方が多いのです。
雨の日には山に行きませんから、木曜日に雨のときには金曜日に順延なんてこともよくあるんですが、富田さんの場合、まずそうなると参加できないという返事でした。もう、他の予定が入っているからです。要するに、もう、曜日曜日、または数週間後まで、遊びその他の予定がきっちり入っていたんですね。興味の分野がおそろしく多岐にわたっていました。僕は、予定をつくることが嫌いな人間なので、これは驚異です。
このコピーは2年前にまとめられた記録ですが、その時点ですでに木曜山行への参加が660回を越えています。残りを僕が数えてみたら、全部で726回となりました。これは木曜山行だけの参加数で、僕とは、それ以外でも山に出かけたことも多かったし、またその間、僕以外の仲間と出かけた、海外のトレッキングを含めた山歩きを足したら、さらに回数は増えます。800回なんて軽く超えるのではないでしょうか。
僕との山歩きが始まったのが富田さんがすでに古稀だったことを思うと、70歳から90歳に近くなるまでの20年間に800回なんていう山行回数はほとんど空前絶後ではないかと思うんです。僕はまだ古稀にはなりませんが、これからの人生で自分が800回も山に出かけることなんて想像もできません。
つい3週間前の4月の初め、富田さんと、もうひとりの山仲間が今年卒寿だっていうので、その前祝をしようと岐阜県のとある場所に旅をするつもりで宿もとって、あとは出かけるだけになっていたんです。このおふたりの米寿のお祝いを2年前にしたので、その流れです。
ところが直前になっての富田さんの訃報で、これは中止にせざるを得ないと思いました。でも、すぐに考えなおしました。だって、突然の離別だからショックではあったけれども、よくよく考えればこれはお祝いすべきことだと思ったんです。参加者はいずれも富田さんと親しい人だけだし、卒寿の前祝転じて偲ぶ旅にしてしまえばいいじゃないかと。
ちょうど1年前、富田さんが小学校から中学校にかけて疎開していた岐阜県恵那市の山を歩こうと泊りがけで出かけました。初日には、笠置山という、恵那市街地からもひときわ目立つ山に登りました。翌日は大雨で、富田さんが子供のころ、山菜やキノコを探して駆け回ったという、疎開先の裏山を歩くつもりでいたのは中止にしたんです。そこで、どうせ岐阜に宿もとってあるのだから、その山歩きを復活させればいいじゃないかと考えたんです。
その疎開先の裏山には馬禿という、今の地形図にも載っている場所があって、つまり、馬の形に山肌が露出した場所なんですね。今では木が茂って下からはよくわかりませんが、そこに行ってみたわけです。
行ってみたら、今でもまずまず視界が開けていて、正面には、昨年富田さんと登った笠置山が見えました。そして眼下には富田さんの疎開先の集落も見えました。
うーん、なるほどなあ、このシチュエーションは出来過ぎではないかと思いました。要するに、富田さんは、自分を偲ぶ旅を生前にすでに用意していたことになるんですね。してやられたと思いましたよ。まあでも、富田さんを偲ぶ旅ですもの、僕たちもにぎやかに楽しませてもらいました。きっと空の上から、俺をダシに楽しみやがってと見ていたでしょうから、ま、おあいこ様ですね。
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