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▼ サガレン   [RES]
  あらや   ..2020/11/16(月) 14:29  No.558
  「人間像」第79号作業をやっていた十一月、夜、布団の中でずっと梯(かけはし)久美子さんの『サガレン』を読んでいました。「第一部/寝台急行、北へ」と「第二部/〈賢治の樺太〉をゆく」の二部構成。サガレンというのは、宮沢賢治が樺太へ旅をした当時の樺太の呼び名です。宮沢賢治も作品の中では『サガレンと八月』のように「サガレン」を使います。

 ロシアには、サンクトペテルブルグ→ペトログラード→レニングラード→再びサンクトペテルブルグと、体制の変化によって何度も名前を変えた部市もあるし、領土の拡大にともなって自国に編入した土地の都市名をロシア語に変えた例も多い。
 日本でも、古くからの地名を捨てて、歴史とは無縁の地名をつけてしまう例があるが、そこには激動の歴史などといったものはなく、単に二つの地名をくっつけたり、語感のみを重視した軽薄な地名をつけたりしている。
 それに対してサハリンの地名には、国境の島ならではの歴史の厚みが隠されている。いくつもの名が地層のように積み重なった土地を、列車に乗って旅していると、まさに歴史の上を走っているのだという実感がわいてくる。
(第一部/三、ツンドラ饅頭とロシアパン)

じつは、コロナ下の今年5月30日、7月18日、9月5日、北海道新聞で連載された『ほっかいどう鉄道探偵』、宮沢賢治の大正13年・花巻農学校・修学旅行引率を扱った文章が大変心地よく、こういう人が書いた『サガレン』なら面白いに違いないと思って読み始めたのでした。


 
▼ 林芙美子  
  あらや   ..2020/11/16(月) 14:33  No.559
  樺太を語る時、北原白秋、林芙美子、宮沢賢治の三点セットは外せない。センスが良いなと思ったのは神沢利子『流れのほとり』をきちんと挙げていたところ。私の〈樺太〉談義だと、他にも野口雨情や金田一京助や知里真志保や久生十蘭や吉田一穂なんかも入って来るんだけど、まあ〈鉄道〉という縛りがあるんだから〈船〉の時代の人は関係ないか。

 芙美子が中野署に勾留されたのはこの前年、一九三三(昭和八)年の九月だが、その半年前の二月には、「蟹工船」で知られろ小林多喜二が勾引され、築地署で虐殺されている。その後、はげしい弾圧によって組織的なプロレタリア文化運動は壊滅に追い込まれた。芙美子が樺太を旅したのはそういう時期だったのだ。
 豊原での巡査との場面で、芙美子は、「まるで被告あつかいにされた」と書いている。敷香に着いた彼女は、そんな自分が国境付近に行けば、あらぬ疑いをかけられると警戒したのかもしれない。それはあながち被害妄想とはいえず、ソ連との国境の島にやってきた著名な作家の行動を、現地の警察がチェックしていたことは十分に考えられる。
(第一部/四、国境を越えた恋人たち)

林芙美子のこの旅は、北海道に入るなり、いきなり函館素通り、倶知安の旅館に籠もって「堀株の漁村」なんかをうろうろ見歩くという旅です。その後も、札幌素通り、旭川の親友に再会した後、一気に樺太へという大変奇妙な旅なんです。樺太からの帰り道でようやく林芙美子がこの旅に意図していたものが判明するのですが、なにか職業柄「倶知安」の文字にいつも目が行ってしまって、この豊原のオマワリの話はコロッと忘れていましたね。『樺太への旅』読み返したら、ちゃんとあった。

 
▼ ミツーリ  
  あらや   ..2020/11/16(月) 14:36  No.560
  第二部では、チェーホフ『サハリン島』がさかんに宮沢賢治の樺太行に重ねられています。梯さんは、『サハリン島』はチェーホフの注が面白いと言う。

 流刑農業植民地の理想はミツーリをおどろかせ、魅了した。彼はこの理想に心から没頭し、サハリンが好きになり、ちょうど母親が愛児の欠点に気づかないように、彼も、自分の第二の故郷となったこの島で、凍土や霧に気づかないでいた。彼はここを花咲く一天地と見ていたのであり、もちろん当時は無きに等しかった気象の資料も、明らかに彼が疑いの念をもって接していた過去の苦い経験も、その妨げとはなり得なかった。そのうえ、 ここには野ブドウ、竹、途方もなく背の高い草、日本人などがあるのだ……島のその後のが歴史を見ると、彼はすでに、島の管理者で、あいもかわらず凝り性な、惓むことなく働く五等文官として描かれている。彼はサハリンで、重い神経錯乱のため死去した。享年四十一歳。わたしも彼の墓を見た。その死後、『農業面から見たサハリン島概観』一八七三年、という著書が残された。これはサハリンの豊穣を讃えた長篇の頌詩である。
(チェーホフ「サハリン島」/「ミツーリ」の注)

 農業によってサハリンを理想の天地にしようとしたミツーリ。サハリンは彼にとってのイーハトヴだったのかもしれない。
(第二部/七、チェーホフのサハリン、賢治の樺太)

ミツーリ、知りませんでした。というより、『サハリン島』は苦手です。

 
▼ ラパーチン  
  あらや   ..2020/11/16(月) 14:39  No.561
   一度日のサハリン取材から帰ったあと、白鳥湖についての情報を探していたときに、北海道教育委員会のサイトに、「サハリンの竪穴群発見一五○周年」と題された記事があるのを見つけた。
 二〇一八年は、一八六八年にロシアの鉱山技師インナキェンチイ・ラパーチンが、白鳥湖の北東岸で、古代の竪穴住居跡群を発見してからちょうど百五十年になるという内容だった。
 あの何もない沼地に。古代人が住んでいたとは!と驚いた私は、ラパーチンについて調べてみた。
(第二部/八、白鳥湖の謎)

ラパーチンも知りませんでした。本当に勉強になる。

 もともとは鉱山技師で、探鉱のためにサハリンにやって来たラパーチンだったが、このときの発見をきっかけに考古学への関心を本格化させ、東シベリアにおける古墳や古代遺跡の発掘許可をロシア帝国考古学委員会に求める。そして後年、シベリア古代遺物の収集家として知られる人物になるのである。
 ミツーリも、このラパーチンも、サハリンにやって来たことで奇妙な情熱にとりつかれ、運命を変転させていった人である。
 (中略)
 チェーホフ(作家)、ミツーリ(農業学者)、ラパーチン(鉱山技師)の三人が、それぞれにやって来た白鳥湖。こうなると、賢治も同じ土地を踏んでいてほしい気がするが、残念ながらやはり確証はつかめないままである。
(同章より)

 
▼ 鉄道探偵  
  あらや   ..2020/11/16(月) 15:00  No.562
  いろいろ勉強になったなあ。例えば…

宮沢賢治『青森挽歌』には、こんな一節があります。

わたくしの汽車は北へ走つてゐるはづなのに
ここではみなみへかけてゐる
焼杭の柵はあちこち倒れ
はるかに黄いろの地平線
それはビーアの澱をよどませ
あやしいよるの 陽炎と
さびしい心意の明滅にまぎれ
水いろ川の水いろ駅
  (おそろしいあの水いろの空虚なのだ)
汽車の逆行は希求の同時な相反性
こんなさびしい幻想から
わたくしははやく浮びあがらなければならない

北へ向かっている旅なのに、なんで「ここではみなみへかけてゐる」なんだろう…という問題が昔からあって、いろいろな珍解釈が出回っていたのですが、ついに解決の日が。

 東北新幹線は八戸からまっすぐに新青森駅に向かってしまうが、賢治が乗った東北本線(この部分は現在第三セクターの「青い森鉄道」になっている)は、下北半島と津軽半島にはさまれた夏泊半島をぐるりと回るルートをとる。
 夏泊半島は、陸奥湾に突き出た小さな半島である。突端にもっとも近い駅が小湊駅で、そこを過ぎると、線路はゆるやかな弧を描きながら、南西へと進路を変える。ここは花巻−青森間で唯一、線路が北上するのではなく南下する区問なのである。賢治は抽象的な表現をしたのでもなく、勘違いをしていたのでもない。事実をそのまま書いたのだ。
(第二部/三、「青森挽歌」の謎)

いや、凄い。ぜひ、林芙美子の帰り道、啄木もやってくれないだろうか。


▼ 学校の彫刻をめぐる地下鉄旅@   [RES]
  あらや   ..2020/09/24(木) 14:11  No.551
  「人間像」第76号作業を終えたので、久しぶりに白石北郷の実家へ。今年はお盆を失礼したので、お彼岸の方で墓参りです。

今回はもう一つ目的がありました。それは、米里中学校が意外と北郷から近いことがわかったので、今度白石に行った時は歩いて米里中学校にトライしてみようと思っていたのでした。そこには山田吉泰「翔き」があります。
考えたら、野外彫刻マニアとはいえ、学校にある彫刻って、札幌西高みたいな例外はあったけれど、一応は学校の敷地内にあるものだから昔は遠慮していましたね。コースから無意識に除外していました。それが大きく変わったのは、やはりコロナウイルスってことになるのかなあ。学校がこれほどの長期にわたって休業になるなんてことはやはり前代未聞のことではありました。あの時、あの建物は何故ここに、あそこにあるのだろうか…と一瞬ですけど考えました。学校が再開された六月以降、あの記憶は日を追うごとに薄れつつあるけれど心にそういう想いがよぎったことは確かです。そのあたりからではないか、私の場合は、この学校、あの学校にある彫刻がなにか大切なもののように思えて来たのですね。それにもう『山の子供』のような世界に還って行けないことを感じた日々、ごく自然に、この眼に残しておきたくて彫刻散歩のコースに学校も入るようになりました。

「翔き」、よかった。土日だし、急きょ、明日の小樽への帰り道で札幌の学校彫刻ツアーをすることにしました。気になっている彫刻がいくつかあるのです。


 
▼ 地下鉄旅A  
  あらや   ..2020/09/24(木) 14:16  No.552
  朝、JR白石駅から苗穂駅へ。苗穂小学校には山田吉泰の「創造」があります。これも良かったなあ。学校の彫刻って、実際に見てみると「あれっ、こんなに小さいの…」ということがままあるんだけれど、「翔き」も「創造」も適度な大きさで気に入りました。セメントっていうのも、なにか、街のブロンズ彫刻にはない独特の空気感がある。

苗穂小学校の学校記念館(旧木造校舎)を見つけて、「ああ、ここか」と一瞬で自分が今いる場所がわかりました。昔、この近くに住んでいたので。
今回もバス旅で廻ることをなんとなくイメージしていたのだけど、今日は地下鉄の方が目指すものにスパッと切り込んで行けるような気がしてくる。で、JR線に対して平行移動して地下鉄・東区役所前駅へ。

駅の近くの札幌光星高校前庭には「鐘の塔と彫刻」がありますね。あれも山田吉泰なんだけど、前回のバス旅で写真撮ったので、今回はパス。そう言えば、あれもセメントだった。

 
▼ 地下鉄旅B  
  あらや   ..2020/09/24(木) 14:20  No.553
  地下鉄南北線・中島公園駅で下車。徒歩で南大橋を渡って水車町(すいしゃまち)へ。昔からカッコいい地名だなと思っていました。なんで水車かと言うと、

開拓時代にはこの地区に官営の製材所があったが、明治20年代に入ると、水車川(豊平川の分流、現在は埋められ、遊歩道になっている)を利用した水車小屋が作られ、精米、製粉などのための動力源として活用されていた。また、同じ頃から、近隣の平岸・中の島・旭町とともに、リンゴの栽培が本格的に行われ、多くの果樹園が作られた。水車川は現在の水車町5丁目の難得神社(難得大龍王)の下手辺りで豊平川から分かれ、水車町公園の横を通り、南7条橋と豊平橋の中間辺りで再び豊平川に合流した。
(ウィキペディアより)

そう言えば、この前ウィキペディアに参照に行ったらカンパ要請の画面が出て来たので、私、300円カンパしましたよ。(貧乏なので300円です…) 表現に干渉されるのを拒むために広告収入やパトロンに頼らない。人々の知識に対する平等を保つために有料化しない。とても偉いと思う。共感した。

水車町には旭小学校がある。旭小学校には川田静子「未来にはばたけ」があるのでした。

 
▼ 前回のバス旅・番外  
  あらや   ..2020/09/24(木) 14:24  No.554
  最盛期の大正初期には7、8軒の水車小屋があり、当時札幌市内に供給される米や粉の加工は、全てこの地域で行われていた。だが、大正中期に電気の普及が始まると、水車の需要は激減し、1924年(大正13年)までには、水車小屋は完全に姿を消した。1962年(昭和37年)に、南大橋が架設されて札幌市街との連絡が至便になると、住宅地化が進み、果樹園の数も減少していった。水車川も家庭排水による汚染が進み、1973年(昭和48年)に埋め立てられた。かつての河道は遊歩道やサイクリングロードとして残っている。
(ウィキペディアより)

水車や果樹園の面影はもうないです。寂しい…

今回の地下鉄旅は、別名「林檎ツアー」ですかね。今日うまく最終地点の天神山にゴールできたらば、途中には、札幌の林檎に関する歴史アイテムがけっこう出て来るはずなんです。「林檎ツアー」は十数年前にもやったことがあって、その時のスタートは元町(もとまち)の啄木歌碑でした。「石狩の都の外の/君が家/林檎の花の散りてやあらむ」という歌ね。なんで、ここで「元町」話題かと言うと、そこの元町小学校には川田静子の「希望」があるんですね。転校生なのか、市内二つの小学校に作品があるというのは珍しい。

 
▼ 地下鉄旅C  
  あらや   ..2020/09/24(木) 16:58  No.555
  この辺り、『十勝平野』新生篇の舞台になった町じゃないかな… あっちが中沢ヌップ(砂澤ビッキ)のアトリエ。それで、

 孝二の下宿は豊平川の川縁のリンゴ園のなかにあった。そこは豊平川の新川と旧川の間に挟まれているので「中の島」と呼ばれていた。
(上西晴治「十勝平野」/新生篇)

その地下鉄・中の島駅へ。中島公園駅まで戻るのは時間がもったいないので、「旭小学校前」バス停にちょうど来たじょうてつバスに乗って中の島駅まで行きました。今回唯一のバス利用。そこの中の島中学校には本田明二の「はばたけ小鳥よ」があります。

ちょっと思っていたよりは小さい彫刻だったけれど、さすがは本田明二。ポーズといい、表情といい、百点満点ですね。この作品のバックに精進川が流れているロケーションもプラスポイントだ。
校舎を囲む低い塀に埋め込まれた鉄の飾り(橋の欄干なんかによくある奴)もカッコいいので写真撮ろうかな…と道路でもたもたしていたら、学校の人に声かけられた。不審者と思われたのかな。それで、私は不審者なんかじゃありませんよ、北海道の野外彫刻を愛する小樽市民ですよ…という意味を込めて一礼し、次に行く予定の「平岸小学校」の場所を尋ねました。いやー、聞いて正解。平岸小学校と正反対の豊平河畔へ動き出すところだった。さらに、地下鉄・南平岸駅を目印に考えていたのだけど直接歩いた方が早いということも教えてもらいました。いろいろありがとう、中の島中学校の先生。休日なのにご苦労さまです。

 
▼ 地下鉄旅D  
  あらや   ..2020/09/24(木) 17:02  No.556
  平岸小学校には本田明二「みのり」がある。何の「みのり」かと言えば、それはもう平岸ですから「林檎」に決まっていますね。昭和55年(1980年)、平岸開基百十年を記念して建てられたもの。愛読書、原子修『札幌の彫刻をうたう』は、この彫刻に

 手のひらの
 ただ一ケの果実の
 天球にもまごう
 重み

という詩が掛けられていますね。彫刻というわけではないが、札幌の町を散歩しながら歌を詠むという『新世代歌人・山田航のモノローグ紀行』(北海道新聞・夕刊連載)はちょっと興味深い。2016年4月の開始以来、毎回スクラップしています。いずれ一冊の本に編まれるのだろうが、私には生の新聞紙の感触の方が心地よい。例えば、

【水車町】流れてく気持ちのどこかをノックして世界の隅で回る水車よ
【精進川】川べりに踏み開かれた雪の路みんな冬でも見たいのだ、川
【中の島】ビル風にさくら舞うころ帰ればいい俺が会いたいだけの理由で
【天神山】糸鋸で木ィ削るような声で鳴く鳥いるねだ坂は続くね

短い紀行文+写真に合わさると、いや絶妙ですね。

 
▼ 地下鉄旅D  
  あらや   ..2020/09/24(木) 17:06  No.557
  元町の「林檎の花の散りてやあらむ」で始まって、天神山の「林檎の花の散りてやあらむ」でフィニッシュというのはちょっとカッコいい札幌林檎ツアーかもしれない。途中、月寒公園の「りんご並木の碑」や、本田明二の「みのり」や、平岸高台小学校の「りんごの故郷から」巨大レリーフや、天神山の久保栄「林檎園日誌」碑を織り込むのはもちろんだけど、もしできるならば、大通り公園の本郷新「泉の像」も入れてほしい。昭和34年、ニッカーウヰスキー株式会社の寄贈です。なんと言っても、大日本果汁(→日果)「マッサン」竹鶴政孝ですからね、そのマッサンのアイデアによって、札幌という街の文化は方向づけられたのだから…

というような妄想を巡らせながら歩いていたら天神山緑地に到着。本日のゴールです。ただ、真実のゴールは緑地公園入口の前にある。通りを挟んで、ここに「斧と楡のひつぎ」澤田誠一氏の家があるのでした。
『札幌の彫刻をうたう』は、この邸宅の庭にある峯孝「プリマヴェラ」の写真を載せています。長い間の懸案でした。2007年6月に氏がお亡くなりになってからは「札幌彫刻散歩」の類いの本にも登場することはなくなりました。もしかしたら、東京上野駅前の本郷新「汀のヴィーナス」みたいなことになっているのではと心配していたのです。
杞憂でした。家はありました。さらに、生け垣が低かったので道路からも庭の一部が見え、そこに「プリマヴェラ」の美しいお尻も確認することができました。得意の七倍ズームで写真撮ろうかとも思ったんだけど、それをやったら俺はまるっきりの不審者になってしまうと直前で思いとどまったわけです。残り少ない人生だけど、生きていればどこかで「プリマヴェラ」に逢うこともあるだろう。今日は「在る」ことが確認できただけで充分だ。

平岸小学校前の看板で、ここが「アンパン道路」のスタート地点であることを知りました。ふーん。次回は、あの何故か相性の悪い月寒公園への再チャレンジかな。霊園前駅(現在の南平岸駅)からの巻返しか… 良いかも。


▼ 手塚治虫漫画全集   [RES]
  あらや   ..2020/08/27(木) 10:43  No.550
  「人間像」第75号をやっている2020年の夏中、作業の合間や寝る時にずーっと『手塚治虫漫画全集』(講談社)を読んでいました。
じつは、「人間像」作業も三年目に入ると、仕事部屋の中も本や紙書類がけっこう溜まってしまって保管するスペースがなくなって来たんですね。それで、もう持ちきれない、死んだら遺族が処理に困るであろう本については、自分の責任で生前整理しようと考えています。その第一弾が400巻の『手塚治虫漫画全集』なのでした。
読んでいたのは、その300番台が多かったかな。誰もが知ってる『アトム』や『火の鳥』といった名作はとっくに100番台あたりで完結してしまって、300番台くらいになると、全集配本中も描き続けていた連載もの(当然「未完」が多い…)とか、幼児向けや小学生雑誌などに描いていた昔のレアものとか、そういう作品がほとんどになります。文学全集で言えば「雑纂」みたいな部分ですが、今読み返すとなかなか面白い。興味深い。もう晩年です。劇画の台頭で、もう手塚マンガなんか古臭い、そのヒューマンな描線が嫌だとかさんざん言われていて、本人もそれを気にして変に劇画チックな画風を試みたりするのですけど、今度は、そこに描かれた「暴力」や「残酷」って、本当に戦争を知っている人が描くホンマもんの「暴力」や「残酷」なのですから、フィーリングで生きてるだけの若い奴はますます退いちゃうとかね。わりと不本意な晩年…という印象があったけれど、そんなのが今の自分に少しばかり重なって300番台を読ませるのかな。まあ、いいか。そんなこと。

『手塚治虫漫画全集』全400巻、希望する図書館があれば寄贈します。誰でも読める環境に置いてもらえれば有難い。



▼ 坂坦道&本田明二・バス旅@   [RES]
  あらや   ..2020/06/09(火) 06:35  No.542
  五月の末日、一月ぶりに白石の実家へ。この2020年5月の一ヶ月間というのは、国のコロナウイルス「特定警戒都道府県」の網が私たちの生活を覆った一ヶ月間でした。

例によって昼間の時間が空いているので、急きょ札幌市内の撮り残し野外彫刻ツアー・第二弾を組み立てました。今回は〈坂坦道〉と〈本田明二〉がメインです。
小樽の、家の近くの「望洋パークタウン前」で札幌駅前行きの中央バスに乗る。札幌駅で降りて、北口出発のバス路線を確認。今回は、前回の清田区方面とは正反対の、北区と東区の境目あたりを行ったり来たりのバス旅です。
北光・北口線の「北49条東3丁目行」を探す。「北49条」なんて札幌、昔の札幌人には想像もできない札幌です。北大が終わって札幌北高のある北24条あたりが私が知ってる札幌の北限なんだけど、いったい「北49条」なんてどういう札幌なのだろう。清田区もわからなかったけれど、「北49条」もよくわからない。

でも、バス停あった。次は11時20分発なので、まだ一時間くらい余裕がある。それで、札幌駅から二区画東の自治労会館へ。ここには、本田明二『朔風』があります。
やはりこういうのが最後まで残るんですかね。札幌駅から徒歩15分、北大側の古書店に行った時でも、ちょっと足を伸ばして…なんて思ってたけど、その「ちょっと」がなかなかできないというか。
それに、この彫刻、真上にぶっとい電線が無粋に走っていて、みんな写真撮るのに苦労しているみたいですね。私も最初はどうアングル変えても電線が映り込むので苛々しました。最後はもう諦めて、わざと電線が顔にかかるように撮ったのだけれど、小樽に帰って来て見直したらこれが一番良かったのです。表情という、本田作品の隠れた特徴を伝えていると思う。


 
▼ バス旅A  
  あらや   ..2020/06/09(火) 06:40  No.543
  駅に戻り、「北49条」へ。「北45条東8丁目」というバス停で降りて栄中学校を目指すんだけど、途中、このバス旅後半戦のアイテム「東区民センター」や「美香保公園」も通るので各バス停眼を皿のようにして注意していました。

で、これが、坂坦道『歓び』。

坂坦道(さか・たんどう)と言われてもピンと来ないと思うけれど、あれです、あの札幌羊ヶ丘の超有名な像『丘の上のクラーク』をつくった人ですね。ギルバート・オサリバン『アローン・アゲイン』じゃないけれど、一発目であの大ヒット曲が世に出てしまって、他にも名曲がいっぱいあるのに誰も言及してくれない…みたいな可哀想なところがありますね。
坂坦道の魅力は、ポーズ。『丘の上のクラーク』は、私にはドラマチックすぎて照れ臭いものだけれど、中学校の生徒通用門の真ん前にこの『歓び』を置くセンスは大したもんだと思う。校章との相性もばっちり。頭良くなりそう。

 
▼ バス旅B  
  あらや   ..2020/06/09(火) 06:44  No.544
  同じ路線の「札幌駅北口行」、途中の「北23条東8丁目」で下車。ここを2丁ばかり西に歩くと美香保(みかほ)公園です。公園の一画、美香保体育館前に佐藤忠良『聖火を持った男』がある。聖火とは、もちろん札幌冬季オリンピックの聖火。前回の大倉山ジャンプ場の國松明日香と同じですね。写真は省略。

ここから北区側へ向かいます。目指すは北25条の若草公園。直線で1キロメートル足らずの距離なんだけれど、歩くの辛い。歳とったなあ… 「北24条東4丁目」というバス停を見つけたので、迷わずバスの方を選択。たった二区間なんだけれど、座れるのが有難い。

終点の「地下鉄北24条駅前」で降りて、徒歩再開。ぼんやり歩いているからか、若草公園を通り過ぎてしまいました。引き返さなきゃとも思ったのですが、前方に何か電波を感じます。体内の野外彫刻センサーが発動。近づいてみると、これでした。

 
▼ バス旅C  
  あらや   ..2020/06/09(火) 06:49  No.545
  https://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/heiwa/rekishi_senseki/senseki/senseki_04/index.html

札幌飛行場 (初代)
札幌飛行場(さっぽろひこうじょう)は、かつて札幌市北24条西(現在の北区)に存在した飛行場。
かつては北海道と東京を結ぶ唯一の航空路を持っていた飛行場で、太平洋戦争中は製鉄・兵器工場のあった室蘭を守備するため、日本陸軍飛行第13戦隊が配備された。
航空機を飛行場へ誘導するための航空灯台は、南1条西2丁目にある丸井今井札幌本店屋上の塔屋に設置されていた。
1945年の終戦とともに閉鎖されたが、跡地では進駐軍の落下傘降下部隊が何度か降下訓練を行っている。
(フリー百科事典『ウィキペディア』)

そもそもの発端が、北海タイムスの社用飛行場だったなんて、「ウィキペディア」には学ぶことが多い。ここだったのか…と思うと、当然、この門柱跡に載っかっているのは、坂坦道『風雪』ですね。こんなに小さい彫刻だったのね…

 
▼ バス旅D  
  あらや   ..2020/06/09(火) 06:52  No.546
  『風雪』碑の隣の家の門柱(?)にも何かオブジェを発見。近づいてみると、『飛』という銘が入っている。これも札幌飛行場関係の何かなのだろうか?

今回もセイコーマートで若草公園の場所を教えてもらいました。やっぱり、エリアの住宅地図を備えていましたね。えらいなあ。

 
▼ バス旅E  
  あらや   ..2020/06/09(火) 06:56  No.547
  坂坦道『いのち』。

 悲惨な事故が二度と起きないようにとの願いをこめて建立された交通安全祈念の像。
 この「いのち」の像は昭和52年(1977年)に建立されたが、10年にわたる風雪で腕や足に亀裂が入るなど傷んできたため、昭和63年にブロンズで作り直したもの。
 母とその両手に抱かれ、もみじの葉のような手を広げ大空を見上げる幼児の姿は、見る人の心を強く引きつける。
 作家 坂坦道
(札幌市北区役所の解説)

札幌って母子像が多いような気がする。以前写真を撮っているので今回は寄らないけれど、近くの北大病院前には本田明二の母子像があるし、パッと思いつく限りでも、本郷新、佐藤忠良、山内壮夫と名だたる北海道の大御所はみんな母子像をいくつもつくっているし、その大半が札幌に集まっているのだから面白い。

 
▼ バス旅F  
  あらや   ..2020/06/09(火) 07:06  No.548
  地下鉄の北24条駅(南北線)と元町駅(東豊線)の間を結ぶバスが頻繁に出ているので、元町方向に行くことにする。目指すのは元町小学校の川田静子『希望』です。

公園、駅、区役所など、野外彫刻は札幌のありとあらゆる場所にありますけれど、いちばん彫刻作品を所有しているのは何処でしょう?と問われて、私わからなかったですね。札幌なら公園かな…とか思ったけれど、答えは、なんと「学校」なのでした。
そうか、学校か。そういえば、前回の北九条小学校の國松明日香とか今回の坂坦道とか、札幌の学校って時々とんでもない技を繰り出しますね。その学校の卒業生とか、そんな関係なのだろうか。手稲の針山家をうかがった帰り道も、なんで稲積小学校に小野寺紀子、なんで富丘小学校に本田明二と不思議に思ったものだけど、案外、卒業生だとすれば、それはそれで美しい話ではある。

地下鉄で「元町」駅から「東区役所前」駅へ。この辺りは昔住んでいたところなので歩いたって道を間違うわけはないとは思うのだが、最近はそれも怪しくなって来ています。特に、距離感がね。昔は10分くらいで歩いて行ったもんだ…とか思って、今の札幌を歩いてみると、あれーっこんなに遠い場所だったの…ということが増えました。
というわけで、ガチガチの安全策で辿りついた東区民センターではあります。本田明二『手をつなぐ』。なんか、子どもを抱っこしていない母子像って珍しいですね。下から見上げることを計算しているのか、母と子のサイズがちがっているような気もするし、母親の脚が西洋人並みに長い気もする。妙な不安定感があって、私には新鮮な本田明二でした。

 
▼ 「いのち」(初代)  
  あらや   ..2020/06/11(木) 17:55  No.549
  小樽に帰ってきて、愛読書、原子修さんの『札幌の彫刻をうたう』(みやま書房,昭和56年刊)をぱらぱら見ていたら、若草公園の『いのち』について「あれっ…」と思いました。写真に写っているのは、初代のポリエステル樹脂像『いのち』です。

最初、母子像を45度起こしたのが現在の『いのち』なのかなと思ったのだけど、そうだとすると子どもの位置がおかしくなる。それに、初代の母親の右手は子どもをしっかり抱き込んでいる。坂坦道氏はブロンズ化に際してかなり手を入れたようにみえます。初代がポリエステル樹脂じゃなくて最初からブロンズだったら、ここまで劣化することなく今に残ったと思うと、ちょっとこの初代のポーズは感動的ですね。本郷新『嵐の中の母子像』にも負けない力が漲っている。この構図は凄い。こんなの見たことない。


▼ 湖の国   [RES]
  あらや   ..2020/04/27(月) 06:51  No.541
  「人間像」第72号を作業している時、読んでいました。
この本、新刊でも何でもなく、2019年10月出版の本です。柏葉幸子さんの本はたいてい図書館で読めるだろうと思っていたのですが、何故か、この本だけ図書館に入って来ない。コロナウイルスで図書館が閉まっていることもあって業を煮やして買ってしまった次第です。

柏葉さんの本は大事です。東日本大震災直後に発表された本は数多くあったけれど、『帰命寺横丁の夏』ほど感じ入った本はなかった。〈死後の世界〉という痛切なのだが何故か明るく静かな世界に、あの人と同じ東北人の血脈を感じとったのでした。私は、違星北斗が描いた『郷土の伝説 死んでからの魂の生活』も想う。あの静けさ。



▼ 國松明日香・バス旅@   [RES]
  あらや   ..2020/04/04(土) 14:23  No.531
  「人間像」第71号作業が終了したので、第72号に入る前にしばらく行っていない白石の実家へ。いずこも同じで、コロナウイルス騒ぎ以来家でじっとしているという。

昼間の時間が空いているので、急きょ札幌市内の〈國松明日香〉彫刻ツアーを組み立ててみました。私は本当のことを言うと抽象彫刻は好きじゃない。北海道中のかなりの彫刻作品をカメラに収めてきましたが、もっぱら具象彫刻が主でした。ぎりぎり山内壮夫あたりが限界だったんですが、道内を廻っているうちに、なぜか砂澤ビッキと國松明日香の作品だけは、その彫刻の前に立つと胸がときめくのですね。もう抽象なんて概念は越えているのではないか。野外で、雪の中に建っている國松明日香に辿りついた時なんか、本当に寒さなんかどうでもよくなるくらいときめきます。

小樽の、家の近くの「望洋パークタウン前」で札幌駅前行きの中央バスに乗る。札幌駅南口から北口方向へ。駅からさらに二区画北へ歩くと、はい、お目当ての北九条小学校。この作品のタイトルは『MUSE#2』です。
この作品が典型なのですが、撮り残している札幌の彫刻ってのは、車で入れないど真ん中の街中か、逆に札幌市とは名ばかりの辺鄙な場所にぽつんとあるようなものばかりですね。


 
▼ バス旅A  
  あらや   ..2020/04/04(土) 14:27  No.532
  駅に戻り、地下鉄東豊線で福住駅へ。目指すは札幌ドームです。もちろんコロナウイルスでサッカーも野球もコンサートも何もやっていない、閉まってます。ドームの中には入れないけれど、ドームを取り巻くように建っている彫刻群は見られるのではないかと考えたのでした。結果は正解。これが國松明日香『休息する翼』です。

バリケードが張り巡らしてあって、これ以上近づくことはできません。デジカメの七倍ズームを多用して撮りました。でも、これでいいです。コンサドーレの試合に来た時でも、ちょっとの合間を利用して撮るようなことを考えたりするけど、実際にはそんな「ちょっとの合間」なんかないし、ドームには人がいっぱいで、『休息する翼』の脇にたむろしている人たちに「そこ、どいてくれ」なんて言えるわけないし。

 
▼ バス旅B  
  あらや   ..2020/04/04(土) 14:31  No.533
  福住駅から美しが丘方面に乗って、「真栄4条2丁目」で下車。ここの住宅地の中に真栄春通り公園というのがあって、そこに國松明日香『風の跡』があるのでした。

いやー、けっこう見つけるのに苦労しましたよ。コンビニの店員に聞いて、ようやく辿りついた。コンビニは若いアルバイト店員が多く、公園や公共施設の場所を聞いても何もわからないことの方が多いんだけど、セイコーマートは付近の住宅地図を備えているらしく意外と打率が良い。もう北広島市との境に近く、事実、この次に乗ったバスは三井アウトレットパークから来たバスでした。

この停留所の先に「アンデルセン福祉村」というのを見つけて、「おおっ、アンデルセンか!」とちょっと胸ときめいたのだけど、こういう場所みたいですね。
https://www.nihoniryo-c.ac.jp/group/access.html

 
▼ バス旅C  
  あらや   ..2020/04/04(土) 14:37  No.534
  「真栄4条2丁目」から国鉄バスに乗り換えて「大谷地駅前」へ。福住駅へ戻るバスしかないと思っていたんだけど、ふと時刻表を見ると大谷地方面まで行けるバスがあったとは有難い。清田区って、この歳になるまで、どこがどこにつながっているのか全然わからないです。大谷地に行けるのなら、次に行くところは、國松作品の中でも超難関の場所、清幌園に決定。

大谷地駅前で下車。北星学園大学を回り込むように歩いて行く。すると、遠目にも異様な雰囲気の建物が見えてきました。清幌園より、迫力あるんじゃないか…
近づいてみると、門に「末日聖徒イエス・キリスト教会(日本札幌神殿)」とある。さらにわからない。後日、インターネットで調べてみると、
https://jp.churchofjesuschrist.org/?lang=jpn
と、ありました。もっと、わからない…

 
▼ バス旅D  
  あらや   ..2020/04/04(土) 14:40  No.535
  清幌園、今度は見つけました。屋上に建っているのが、國松明日香『陽・ひだまり』。

前回は、大谷地駅に降りたらなんとか見つかるだろう…みたいな甘い気持ちで動いて見事失敗したのでした。いやー、これは勘では探せないわ。

 
▼ バス旅E  
  あらや   ..2020/04/04(土) 14:44  No.536
  清幌園から次の厚別公園までは歩くことにしました。接続のバス(停)が見当たらないし、コンサドーレの試合で何回か行ったことがあるので場所の見当はついているし、楽勝ですね。競技場の周りで國松作品を見かけた記憶はないから、たぶん公園のあっち側かな…

見つけました。いやー、でっかいな、これ。國松明日香『捷』。

今まで見た國松作品の中で最大ではないだろうか。洞爺湖畔の『輪舞』や砂川市役所前の『茜雲』も大きかったけれど、それらを越えていますね。大満足だ。

 
▼ バス旅F  
  あらや   ..2020/04/04(土) 14:49  No.537
  大谷地駅に引き返そうと道を歩いていたら、バス停を発見。見ると「新札幌駅前」行きの国鉄バスがあるらしい。白石の実家まで行くのに地下鉄大谷地駅に戻って、そこから新札幌駅で乗り換えてJR白石駅へと考えていたので、一手順省けるのは有難い。運動靴じゃなくて普通の革靴で歩いていたので、さすがに足が痛い。

鉄、ということで、一昨日の北海道新聞に出ていた『炎』のことを思い出す。

 銭函駅前の顔∴齊椏P去
 一原有徳さん作モニュメント 老朽化
 小樽出身で世界的な版画家の故一原有徳さんがデザインしたJR銭函駅前のモニュメントが今月、老朽化し倒壊の恐れがあるとして取り外された。補修には最低でも1500万円が必要とみられ、所有する市が費用を賄えなければ廃棄される可能性もある。保存を求める住民の声を受け、市はインターネットで資金を集めるクラウドファンディング(CF)の検討を始めた。
(北海道新聞 2020年3月30日/小樽後志欄)

これですね。小樽公園にあるでっかい『炎』より纏まりがあるかな。
https://blog.goo.ne.jp/h-art_2005/e/c09cf9b5b2504495ce032ced630cff69

野外彫刻は動くなあ。以前、「北海道デジタル彫刻美術館」なんて大言壮語していた人もいたけど、結局、いつもの「札幌デジタル彫刻美術館」で終わったみたいだし。(スマホの世界で展開していて、私が知らないだけかもしれないが…)
國松作品にも、所有者だったレストランがつぶれてしまって、現在、所在不明なものがありますしね、人ごとではありません。北海道全域のデータベースは必要です。

 
▼ バス旅G  
  あらや   ..2020/04/04(土) 14:52  No.538
  翌日、小樽へ帰る途中で大倉山ジャンプ場に寄ってみようかと思いつく。円山・宮の森周辺は、本郷新彫刻美術館があるくらいの札幌彫刻の隠れた聖地みたいなところで、私も何回も足を運んでいますけれど、この大倉山ジャンプ場だけは苦手でした。けっこうぽつんと離れているし、山登りだし。
今回は、あれこれ余計なことを考えないで大倉山ジャンプ場だけを目指し、それが終わったら潔く小樽へ帰る決意です。『虹と雪のバラード』か…、それでもあまり燃えません。

地下鉄円山公園前駅で降りて、宮の森シャンツェ行きの中央バスへ。一時間に一本のジャンプ場直通のバスは時刻が合わず、普通のバス・コースで「大倉山ジャンプ場入口」下車。後は歩きというか、登山というか。
途中、札幌聖心女子学院高校の前を通る。昔、高校生だった時、市電の終点「円山公園前」で降りる女子高生らしき一団があったのだが、あの女の子たちは毎日ここまで山登りしていたのか…と今更ながらに驚く。大倉山小学校のかっこいい校舎も眼下に見えた。山の手の大金持ち豪邸かとも思ったが、小学校だったのね。

 
▼ バス旅H  
  あらや   ..2020/04/04(土) 14:55  No.539
  國松明日香『NIKE』。札幌駅前にある『NIKE』と同じでいいのかな? 置かれた場所でずいぶん雰囲気がちがうものですね。

http://okura.sapporo-dc.co.jp/guide/index.html

「札幌オリンピックミュージアム」は開館しているので、車で来た親子連れが『NIKE』なんか見向きもしないでミュージアムへ直行。「あの、写真撮ってるおじさん、何?」って感じでしょうか。札幌市内の人混みの中では、こうした不審者を見るような視線に晒されることが多いのですが、今はコロナウイルスのおかげでひとりで気儘に写真撮っていられる。有難いと言うか、何と言うか。

 
▼ バス旅I  
  あらや   ..2020/04/04(土) 14:58  No.540
  ジャンプ台の脇に何やらモニュメントらしきものを発見。近づいてみると、これでした。『大野精七博士顕彰碑』。裏にまわって作者名を見たら、なんと佐藤忠良でした。「大倉山ジャンプ場の歴史」によると、大野精七とは、

1928(昭和3)年2月 初めてご来道された秩父宮殿下は、大野精七博士(北海道大学スキー部部長)に、オリンピック用の本格的なシャンツェ建設のお力添えを約束される。(建設費等は大倉喜七郎男爵が提供する)

バスで円山公園駅まで戻って、地下鉄宮の沢駅へ移動。「西町北20条」で小樽築港駅方面の中央バスで望洋台に戻って来るのですが、少し時間に余裕があったので白い恋人パークへ寄ってみる。入口テントで体温検査をやっていて、それに合格した者だけが中へ入れるらしい。もちろん、面倒臭いからパスですね。コンサドーレの練習は明後日からだというし、なにも好きこのんで人の集まっている場所に入って行くことはあるまい。とっとと家に戻って第72号作業に取りかかろう。


▼ かがみの孤城   [RES]
  あらや   ..2020/03/22(日) 09:42  No.528
   別の質問が出た。
「三月三十日ってのは、間違いじゃない? 三月は三十一日までのはずだけど」
 その声は、それまで一人、何も言葉を発さないでいた、ジャージ姿の男の子のものだった。こころが内心で「イケメン」と思ったあの子だ。涼しい目元がこころの好きな少女漫画に出てくる男の子と以てる。
 オオカミさま≠ェ首を振った。
「訂正はしない。城が開いている期間は三月三十日までだ」
「それは、なんでそうなんだよ?」
 彼が尋ねた。
「何か意味でもあるの」
「特にない。三月三十一日は、強いて言ぅなら、この世界のメンテナンス期間なんじゃないか? よくあるだろ。改装のためにお休みします、とかなんとか」
(辻村深月「かがみの孤城」)

三十日までなら、ちょうど読み終わるでしょう。図書館が開いててよかった!
『京極読書新聞』第106号で中学生が紹介していて、なにか面白そうな匂いがしたので読みたかったのでした。
図書館に次の本のリクエストも出して来たし…、読書生活も復元中です。


 
▼ 二月  
  あらや   ..2020/03/25(水) 09:38  No.529
   「そういうのも全部、そろそろ直接聞くべきなんじゃない?」
 リオンが言った。全員が「え?」と顔を上げると、リオンが「聞いてるんだろ?」と天井に向かって呼びかけた。それから、誰もいない部屋の向こうの廊下に向かって声を投げる。
「今の話も全部聞いてたんだろ? オオカミさま=A出て来いよ」
「――騒々しいな」
(辻村深月「かがみの孤城」/「二月」)

いいですね。「かがみの孤城」の情景と現実の「雪科第五中学校」の情景の対比が心に滲みる。昔、高校の図書館に勤めていた頃、前夜タウンゼンドのヤングアダルト小説を読んだ頭のままで、朝の学校に出勤しなければならない、あのユーウツな気分を思い出した。最初はマンガの『はみだしっ子』みたいなものを思っていたけど、かなりちがいますね。「かがみの孤城」内の味わいは、私には、タウンゼンド『北風の町の娘』クラスの爽快感を与えてくれます。もうすぐ「三月」になる(読み終えてしまう)のが惜しい。

 
▼ 三月  
  あらや   ..2020/03/27(金) 08:31  No.530
  「そんなもんなんだよ。――バカみたいだよね」
 東条さんが言った。こころを見る。
「たかが学校のことなのにね」
「たかが学校?」
「うん」
 こころは驚く思いで、全身で、その言葉を受け止める。そんなふうに思ったことは一度もなかった。
(辻村深月「かがみの孤城」/「三月」)

昔、祖父母の家の屋根裏部屋で一年間自宅浪人をしていたことがある。「じゃーね。(また明日…)」みたいな調子で、佐藤忠良の彫刻がある校庭で別れてから、この六十七になる今まで、もう二度とそいつに会うことはなかった。私の卒業式だった。屋根裏の一年間が、その後の人生を大きく変えた。その屋根裏で、クラスだの、級友だの、進路だの、そんなことは〈学校〉がつくり出した共同幻想にすぎないものだったことに初めて気づいた。

タウンゼンドを思い出したのは、あながち的外れではなかった。

学校が閉じて、卒業式も終えてしまって、今、何をしてよいかわからない人は、ジョン・ロウ・タウンゼンドというおじさんの『未知の来訪者』という本を読んでみてはどうでしょうか。おもしろいよ。


▼ ブックトーク   [RES]
  あらや   ..2020/02/14(金) 18:22  No.526
  一月、ライブラリーの〈新谷保人〉にアップした『小樽日報』。ありゃ何ですか、読書ノートですか、図書館報ですか、文芸評論なんですか…という質問があったので。

あれは、一応、ブックトークのつもりなんですけれど。

ブックトークとは、「一定のテーマを立てて一定時間内に何冊かの本を複数の聞き手に紹介する行為」(ウィキペディア)です。図書館現場、特に学校図書館などで、「読み聞かせ」などの手法と併せてよく使われる図書館技です。出が学校図書館なんだもんで、昔から私もよく使います。というか、この技しか使えないみたい。

「まったく、ハンスって子には、たいへんなことが起こったもんだよ。神様は、貧しい家の子どものことまでも、ちゃーんと、心配していてくれるんだね。あの足の悪い子に、こんなことが起こるなんて、まるで、この話の本には、ハンスのことが書いてあって、わたしたちは、ハンスのお話を、読んで聞かせてもらっているようだね。」と、オーレがいった。
(アンデルセン「足の悪い男の子」/平林広人訳)

さらに云えば、出が小学四年生の時のPTA廃品回収リヤカーの上に乗っていた『アンデルセン童話集』だからかなとよく思う。なんか、あの本から人生が変わったような気がする。というか、あの時からそんなには進歩はしていないとも感じる。


 
▼ 諸星大二郎  
  あらや   ..2020/02/14(金) 18:25  No.527
  なにか、これからのライブラリーのためにも、上西晴治は手許にいつもあった方がいい、図書館から借りて来るのでは一手順遅れをとる(?)みたいな直感があって、小説本は全部購入したのだけど、実際には、日中「人間像」作業をみっちりやった後の布団の中で上西晴治読むのは少しハード過ぎました。

実際に読んでいたのは、二月ならば、諸星大二郎の『諸怪志異』であり『海神記』でしたね。脳が疲れているのか、一、二話読めばすぐに眠たくなっちゃう。北海道の冬でも、朝の四時台には目が覚めますしね。有難いです。


▼ トカプチ   [RES]
  あらや   ..2019/10/22(火) 09:05  No.522
  『十勝平野』を読んでいる時、なにか頭の片隅にちらちら浮かんでいたものがこの本でした。上巻の途中あたりからだろうか、ああ、あの本…と気がついた。

高校二年の頃だろうか、思いがけないお小遣いや手間賃を貰った時など喜びいさんで丸善へ行っては、この筑摩書房『宮澤賢治全集』の一巻一巻をばらで買っていました。一冊760円。全巻揃えるような大金はないから、私は今どの巻がいちばん欲しいのか…、一冊買うのに本棚の前で一時間も迷うような高校生だった。
第六巻は特に好きでしたね。名の通った作品は文庫本で読めるから、それらを一通り読みつくしてしまうと当然次は文庫本未収録の作品に向かいます。第六巻は、その意味で、見たこともない賢治作品がぎっしり詰まった宝の山なのでした。旧字旧仮名の文章がどの程度読めていたのかわからない。たぶん何にも読めていなかったのだろうけど、誰も見たことない賢治世界に今私は直面しているみたいな幼稚な喜びの中に生きてましたね。

上西晴治にとっての十勝平野は、宮澤賢治にとっての〈イーハトーヴ〉なのだと感じました。なんで『十勝平野』なんて和人っぽい題を付けたんだろう。ここは当然〈トカプチ〉だろう。いや、一回転半ひねって、和人が読む、和人の言葉で書かれた小説なのだから、『十勝平野』でいいのか。


 
▼ 十勝平野(上)  
  あらや   ..2019/10/22(火) 09:09  No.523
  宮澤賢治が死の直前まで手を入れていた『銀河鉄道の夜』に初期作品の『イギリス海岸』が組み込まれていたりするように、『十勝平野』(筑摩書房,1993.2)の随所にも、『ポロヌイ峠』(風濤社,1971.8)〜『コシャマインの末裔』(筑摩書房,1979.10)〜『原野のまつり』(河出書房新社,1982.1)〜『トカプチの神子たち』(潮出版社,1982.10)のいろいろなエピーソードが組み込まれている。
上西晴治の『銀河鉄道の夜』とでも云えるような構造になっていて、「オコシップ」〜「周吉」〜「孝二」の三代の生涯が明治大正昭和の時系列に沿って描かれているので、私たち和人には親切な物語と感じました。
『ポロヌイ峠』が何回読んでもよくわからなかったのは、この時系列が意図的に壊されていたからで、いくらファミリアとかクラウンとか私たちが知っている名詞が出てきても、物語全体が今も残るアイヌモシリの悠久の時間の中で語られるのでわけがわからなくなるのだった。ファミリアもコシャマインも同じ比重で飛び交っている世界。

上西晴治については今の時点では不用意な言葉は言いたくない。もっとどっぷり物語の時間にとどまっていたい。

 
▼ 十勝平野(下)  
  あらや   ..2019/10/22(火) 09:14  No.524
  時系列が入ったことで、とても恐ろしいこともあった。

「蛆虫ども、死んだ馬にたかった蛆虫どもだ」
 孝二は突然立ち上がった。
「見ろ、和人たちは笑いこけながら、平気で罠を仕掛けてくる。いつもこの伝でやってくるんだ。歌がなんで父の供養になるもんか」
 あたりに殺気が漲り、和人たちの眼は鋭く吊り上がった。
「ほう、おらたちが蛆虫だとな」
 いっときして、兵藤会長が押し殺した声で言った。その声は怒りに震えていた。
「誰のお陰でこうしていれるんだい。お上から手厚い保護を受けてよ。おらたちの寛大な慈悲がなかったら、アイヌたちはもうとっくに抹殺されていたんだぞ」
(上西晴治「十勝平野」下巻)

目障りなアイヌが死んで大はしゃぎする和人たちの、この葬式場面は『ルイベの季節』(『コシャマインの末裔』所収)という短篇の中にもあって、あの時は、札幌から飛んで帰って来た青年・孝二(源一)の発作的な怒りという風に読んでいたのだが、『十勝平野』の時系列がはっきりするにつれて、この葬式の場には、妻のマサ子も息子の陽一もいたことを私たちは知ることになる。

「何の用だ」とふたたび声がして、孝二は敷居を跨いで框の前に立つ。兵藤と女房のヤス子が頭を青大将のように、にょっきり立てて睨みつける。
「僕の身勝手な我儘で、つい失礼をしてしまいました。どうかご勘弁願います」
 孝二は無礼を詫び、深々と頭を下げて許しを乞うた。
「蛆虫とな、よくも言えたもんだ」
 兵藤は顎をしゃくり上げた。
「気が立っていたもんですから、軽はずみの言動を後悔しています」
「それが本心なら、そこに土下座して謝れ」
 兵藤が框に、にょっきり立って見下ろした。孝二はその場に土下座し、両手をついて頭を土間にこすりつけた。
「許しが出るまで、そのまま頭を下げてろ」
 兵藤は右足を伸ばして、孝二の頭を上からぐいっと踏みつけた。

 
▼ トヨヒラ  
  あらや   ..2019/10/23(水) 08:54  No.525
  第四部・新生篇の冒頭に掲載されている「札幌市略図(昭和30年ころ)」が胸に滲みる。まったくの個人的なことだが、昭和27年生まれの私には「これが札幌だった」みたいな感慨がある。ヌップの家から北海学園大を越えると私の生まれた豊平の街。三越の横にあった札幌丸善。ウタリ協会はここにあったのか… 北大医学部に眠っているモンスパの骨。天神山山頂に建ったヌップの『四つの風』。何時間でも見入ってしまう。


▼ ポロヌイ峠   [RES]
  あらや   ..2019/09/20(金) 11:14  No.517
  須田茂さんの『近現代アイヌ文学史稿』(同人雑誌『コブタン』連載)が現代編に入り、ついに今年発行の第46号で〈鳩沢佐美夫〉と〈上西晴治〉の名も登場してきました。

この二人の作家についてはなにか苦い感情がいつもあります。なぜか最後まで読めない。北海道の作家ということで、とりあえずは手元の「北海道文学全集」の、鳩沢佐美夫『対談・アイヌ』(第11巻)、上西晴治『ポロヌイ峠』(第21巻)から読みはじめるのが常だったのだけれど、これがいけなかったのかもしれない。字面を追うことはできるけれど、その作品の世界観が次第にわからなくなって、感想というか、感動というか、そういういつもの本の読後感が形づくれなくなって行くのですね。今回もそうでした。

まあ、私の頭が悪いからなんだろうけど、最近は、「北海道文学全集」の編集(作品の切りとり方)に対する疑問もいろいろあって(例えば、なぜ「人間像」の作品はオール無視なのかとか)、今回は全集に頼らず、作品発表時の単行本で読もうと考えました。(発表時の同人雑誌で読めればより理想的なんだろうけど、そんな極楽の環境にない…) 市立小樽図書館に上西晴治がほぼ揃っていたのはありがたかった。(鳩沢佐美夫がすべて館内・禁帯出なのは残念だった…)

正解だったみたい。『十勝平野』が貸出中だったので、『ポロヌイ峠』(風濤社,1971.8)と『コシャマインの末裔』(筑摩書房,1979.10)の二冊からスタート。いつもの通り『ポロヌイ峠』は挫折だけど、今日の私には『コシャマインの末裔』いう技がある。これが功を奏したのか、上西晴治という人の立ち位置が初めてわかったような気になりました。その位置から『ポロヌイ峠』に戻って来ると、『オロフレ峠』という作品に堪らず涙してしまった。


 
▼ コシャマインの末裔  
  あらや   ..2019/09/20(金) 11:19  No.518
  いろいろな発見があったのだけど、たとえば、こういうさりげない場面にいきなり〈ユーカラ〉を感じたりしました。知里幸恵にはないショックだった。

 母は小説の読み方がうまいばかりではなく、いちど読んだ小説はそのすみずみまで知っていた。後で筋道をふりかえるとき、母は大ていのところなら、かなり正確に読むときの早さでしゃべることができたので、みんなはすっかり感心した。
「モンスパも頭がよかった」
 とタケ婆ちゃが祖母のことをいうと、
「ユーカラの名人だもの」
 当然のことだ、とシノおばちゃは大仰に両手を広げて合槌をうった。母はモンスパに習って歌がうまく、心にしみるところはどんなに長い文章でも何度となく読んで、節まわしよく諳んずるのだった。いい易く作りかえ、自分の口に合わせて歌うものだから、聞き手たちの心にうまく融けこんでしまう。
「じんないボボをどやされて、もちょこかった」
 という条がおかしいといって笑いころげた。何度聞いても飽きないようで「そこんとこは」と同じ質問を投げかける。すると母はまたはじめから高らかに歌い出すのだった。
「悪いやつだ、殺してしまえ」
 聞き手たちの心のたかぶりも常に決っていて、悪玉を思いっきり罵倒した。有名な戯曲の筋書きを知っていながら何度でも聞いた。菊池寛、吉屋信子、牧逸馬といった作者の名前が、名文といっしょに、いつもみんなを浮き立たせた。しまいに主人公の病気が気になり、作者にお願いしなければならないという者が出た。
「無理だわ、なんぼ菊池寛だって、肺病はもう三期に入っただもの」
(上西晴治「コシャマインの末裔」/オコシップの遺品)

 
▼ 中沢ヌップ  
  あらや   ..2019/09/20(金) 11:24  No.519
   「どうしても巻き貝のように先細く丸まってゆくんだよ」
 傍に寄ってきたヌップはこういって笑った。一瞬たじろいだ源一だが、湖のように澄んだ彼の眼にひかれて思わず「かわってる」と応えた。
 あれほど警戒していたことなのに、古い知己のように、このときから源一たちは心をむき出しに話し合うようになったのである。
 源一たちは天神山の頂上に坐ってとりとめのない話をした。ヌップは気が向くと故郷のことを話すことがあった。子供のころは、アイヌなら誰もがそうだったように、ひどく貧乏だったという。(中略)
 ヌップは我慢強く勉強にも喧嘩にも強かったので、みんなにアイヌの英雄コシャマインと呼ばれて敬われた。熊撃ちでは生計がたたなかったので、彼は小学校を卒えるとすぐに阿寒に出、観光客相手に土産物を彫って家の手助けをした。土産品を彫って五年経った。その年の暮れ、観光にきた東京の彫刻家と知り合ったことが機縁で、ヌップは彫刻の勉強をはじめたのだった。
「人種の違いで作品の価値を決める下劣なやつがいる」
 迷惑なことだ、とヌップはいう。
「アイヌの人たちが作っただけで珍しがるという?」
「好奇心というなまやさしいものではなくてね、結局は侮辱なんだ」
 ヌップは不機嫌である。
(上西晴治「コシャマインの末裔」/トヨヒラ川)

この本の画、砂澤ビッキなんですね。

 
▼ トカプチの神子たち  
  あらや   ..2019/09/27(金) 16:28  No.520
   卜コナン婆さんの歌声は澄んだ夜空に冴えわたった。

 ユクランヌプリ(鹿の天降る山)に ホー
  大きな音がすると ホー
  袋に入った鹿のかたまりが ホー
  天から投げおろされ ホー
  若鹿たちが ホー
  キラキラ光る新しい角をふりふり ホー
  人里の方ヘ ホー
  雪崩のようにおりてくる ホー

「十勝の国には鹿や鮭の天降る山や川がいくつもあった。釧路境にある音別川の水源や日高境にある伏古川の水源。それに利別川、浦幌川の水源もそうだ。人里におりてきた鹿や鮭は常に群をなし、枯草や川底の小石と間違えるほど野川にみちみちていたので、焚火に鍋をかけてから獲りに行っても間に合うほどだった。
 秋晴れがつづき、山の斜面や小川のほとりに雄鹿たちが集って、甘い樹液のでるイタヤの木をかじる、かじる、かじる。アイノたちは獲物に木幣を飾って丁重に送ったものだ」

 ユクランヌプリ(鹿の天降る山)から ホー
  里におりてきた若鹿たち ホー
  この天から賜りし ホー
  尊い食糧 暖かい衣裳に ホー
  同胞一同 心から感謝します ホー
  ここに餅も酒も御幣も ホー
  神の父 神の母の御許ヘ ホー
  お土産ものとして捧げます ホー


上西は小説作法について「米作家コールドウェルのリアリズム、宮沢賢治の観察力に学んだ」(北海道新聞、一九九三年五月十六日)として、次のように述べている。
(須田茂「近現代アイヌ文学史稿」/第十二章「現代小説の台頭」)

なるほど。たしかに宮澤賢治…

 
▼ 二十六夜  
  あらや   ..2019/09/27(金) 16:31  No.521
   旧暦の六月二十四日の晩でした。
 北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻は微かな星のあかりの底にまっくろに突き出ていました。
 獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれでも林の中に入って行きますと、その脚の長い松の木の高い梢が、一本一本空の天の川や、星座にすかし出されて見えていました。
 松かさだか鳥だかわからない黒いものがたくさんその梢にとまっているようでした。
 そして林の底の萱の葉は夏の夜の雫をもうポトポト落して居りました。
 その松林のずうっとずうっと高い処で誰かゴホゴホ唱えています。
「爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰く、諦に聴け、諦に聴け、善くこれを思念せよ、我今汝に、梟鵄し諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。
 爾迦夷、則ち、両翼を開張し、虔しく頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐ろに座に復し、拝跪して唯願うらく、疾翔大力、疾翔大力、ただ我等らが為に、これを説きたまえ。ただ我等が為に、これを説き給えと。
 疾翔大力、微笑して、金色の円光を以て頭に被れるに、その光、遍く一座を照し、諸鳥歓喜充満せり。則ち説いて曰く、
 汝等審に諸の悪業を作る。或いは夜陰を以て、小禽の家に至る。時に小禽、既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍してこれを握む。利爪深くその身に入り、諸の小禽、痛苦又また声を発するなし。則ちこれを裂きて擅に噉食す。或は沼田に至り、螺蛤を啄む。螺蛤軟泥中にあり、心柔輭にして、唯温水を憶う。時に俄に身、空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱声を絶す。汝等これを噉食するに、又懺悔の念あることなし。
 斯くの如きの諸の悪業、挙げて数うるなし。悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。継起して遂に竟ることなし。昼は則ち日光を懼れ又人及び諸の強鳥を恐る。心暫も安らかなるなし、一度梟身を尽くして、又新に梟身を得う、審に諸の苦患を被むりて、又尽ることなし。」
 俄かに声が絶え、林の中はしぃんとなりました。ただかすかなかすかなすすり泣きの声が、あちこちに聞えるばかり、たしかにそれは梟のお経だったのです。
 しばらくたって、西の遠くの方を、汽車のごうと走る音がしました。その音は、今度は東の方の丘に響いて、ごとんごとんとこだまをかえして来ました。


初めて『二十六夜』や『貝の火』を読んだ時の驚愕が来た。あそこから、なにか人生の歯車が変わったんだ。








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